「である」と「言われている」の感覚ギャップ

単行本を作るときに、著者の時間がないからというので、対談にして、その内容を書き起こしたときのこと、書籍の中では歯切れのよい先生方なのに、なんだかはっきりとしない物の言いようで、書き起こし原稿を見たときに、どうしたものかと悩んでしまったことがあります。
これこれは事実で、だからこうである、と「である」の断定表現で話しているのに、「と言われている」「とされている」と書かれていると、“自信がないのか”“よく調べないで語っているのか”というように見えてしまいます。書籍の中に「である」と書かれている部分と「と言われている」と書かれている部分があると、こちらは自信があり、こちらは自信がないというように分けて考えることもあります。ウソや間違いを断定的に言われるよりはよいとしても、できることなら「である」と自信をもって書いてほしい、自信がある部分だけを使ってほしいと考えてしまいます。
そこで、基本的に「である」だけを使うようにして原稿に起こしたところ、著書監修に回したときに、あちこちの「である」に赤字が入って、「と言われている」「と考えられている」「とされている」「との意見が多い」「と見られている」と書き換えられていたのには参ってしまいました。
このことは対話の原稿化だけでなく、本当に著者本人が執筆しているときにも、やたらと曖昧表現になっていることも少なくありません。この“少なくありません”という表現も曖昧なもので、これくらい多いと書きたいときに完全な裏付けデータが見当たらず、感覚だけで多い、少ない、少なくないと使ってしまうことも“少なくありません”。
話し言葉の表現では、最大、最高と言っているのに、文章になると最大級、最高レベルと変えていることもあります。話すときには最大だ、最高だと言っても、実際に記録に残る文章では本当に最大なのか最高なのかとツッコミされたときに、それを調べて、完全に自信をもって述べられるだけの裏付けがないとなると、どうしてもボカした表現になってしまいます。
何もかもが断定表現で、データの羅列では読み物としては固くなってしまう、という考えもあります。しかし、書籍を参考にして、自分の仕事や生活に活かしたい、よいネタとして他人に伝えたいと思っているときには、できるだけ詳しいデータを示してほしいと願うところがあり、自分たちが関わる書籍も、そのようにしています。しかし、編集者の手にかかると、固いところがボカされて、望まない結果の曖昧表現になって発行されることもあります。書籍は読者ウケを考えないといけないそうで、それも世に広めるためには仕方がないことなのかもしれません。最後も曖昧表現になってしまいました。