発達栄養学53 80kcal栄養学が主流となった歴史的背景

日本の栄養学は80kcalを1単位とするわかりにくい数字が基本になっていると前回、説明しました。この80kcalは食糧難の“戦後の緊急措置”として始まったということも紹介しました。では、戦争の前の基本のエネルギー量は、どれくらいの量だったのかというと、今のような栄養学の教科書のように詳細のエネルギー量と重量を示したものではありませんでした。80kcalを基本とすることが示されたときに、食品交換表が発表され、食品群ごとに食べるべき食品の分量が示されたことから栄養教育に適した内容だったことで、戦前の大雑把な栄養指導に比べると画期滴な内容でした。
しかし、問題となるのは食糧難で減らした80kcalの内容が、今では通常に食べられる量となり、食卓に並ぶ食品のエネルギー量を測定すると日常的には100kcal前後となっていることです。教育で使われ、栄養指導のときに示される分量(エネルギー量と重量)が現状と合っていないことです。
日本の栄養学が始まったのは明治時代のことで、陸軍の軍医であった森林太郎(作家の森鴎外)が22歳でドイツに留学して学んできたのは100kcalと単位とする方法でした。軍隊の役割や労働量によって摂取すべき食品を100kcal単位で決めて、その倍数、つまり200kcal、300kcalというようにして、全体の食品の量を100kcal単位で2500kcalなどというように決めていました。
日本で初めて栄養の研究所が創設されたのは大正9年(1920年)のことで、現在の国立健康・栄養研究所の前身である栄養研究所(当初は営養研究所)です。初代の所長の佐伯矩(ただす)医学博士は100kcal単位の栄養学を推進して、栄養学会、佐伯栄養専門学校を設立して卒業生に栄養士の称号を与えています。
日本の栄養学研究は100kcal単位を基本としていたのが、今から75年前の終戦後の食糧難から実際に一食あたりに食べられる食品の量が80kcalに減ったことから緊急措置で80kcalにしたわけです。それが女性の栄養教育に取り上げられ、低エネルギー量の食事を推奨する医学系の学会に採用されてから、なぜか今まで前例主義で受け継がれてきました。
この流れを100kcal単位というわかりやすいものに変えようとしたのが“100kcal栄養学”の考え方です。