酒をすすめる「酒飲まず」

山梨県にセミナー講師として行ったときに、地元の方と一緒に食事をしましょうということになり、お酒も運ばれてきました。セミナー主催者から銚子を向けられて、こちらも猪口を出して注いでもらおうとしたときのこと、どうしてよいかわからない言葉を投げかけられました。その言葉は「酒飲まず」。酒を飲まないというなら、銚子も猪口もいらないだろうにと思ってしまい、猪口を引っ込めようとしたときに、さらに銚子を前に出されて言われたのが、「さあ、酒飲まず」。ここまで来てわかったのは、これが甲州弁の“ず”言葉だということでした。
甲州弁の酒飲まずは、酒を飲もう、飲んでください、という意味なのです。これを打ち消しの“ず”と思ってしまったら、山梨県では何も行動ができないことになってしまいます。行こうは「いかず」、帰ろうは「かえらず」となります。道案内をお願いしたときに、右に行き、左に行き、その後はまっすぐに行くということは「右いかず、左いかず、まっすぐいかず」となって、自分はどこに行けばよいかわからなくなってしまいます。
山梨県と書きましたが、実際に行ったのは甲府市で、この地域は国中地方と呼ばれます。山梨県は御坂山地と大菩薩嶺を境にして東西で方言が異なっています。西側の国中地方は駿河国との交流が盛んであったことから静岡弁の“ずら”が使われることもあって、“ず”と似たような使い方がされています。ずらは「だろう」「でしょう」を意味しますが、確定の意味でも使われています。この使い方のほうが甲州弁の“ず”と同じ感覚です。
山梨県の東側は郡内地方と呼ばれていて、こちらでは“べー”や“だんべー”が使われます。この方言は、やはり隣接している西関東方言と共通しているところがあります。方言分布では、西関東は栃木県西部、群馬県、埼玉県を指していますが、東関東の栃木県東部、茨城県とニュアンスが違うだけで言葉が通じないということはありません。こういったことに比べると、国中地方の甲州弁は、かなり特徴的で、関東の方言に慣れている人でも戸惑うことにもなります。
こういったことを書いていながら、お酒を目の前にすると、酒を飲むなと言われても無理やりに飲んでしまう我が身にしたら、あまり関係ないことなのかもしれないのですが。