日々修行の連載コラム366回を書いてきて、その解説版のような形で自分の年齢に重ねて年表の式になってきたことを振り返りました。1回だけで済むかと思っていたら、それぞれ付け加えたいこともあって、2回目となりました。
今年(2025年)は昭和100年で、私が生まれたのが昭和30年なので、今年で70歳です。
大学4年生の22歳のときに、日本厨房機器工業会の「月刊厨房」の編集のアルバイトを始めましたが、これは完全にアルバイトのつもりで、少なくとも就職先としての視野には入っていませんでした。
就職先としては、従兄弟(母方のお寺の跡取り候補1番)が東京で電線業界の業界紙の記者をしていたので、そこの社長が雇ってくれるとの話がありました。他の就職活動をしないことを条件とされたので、それまでのつもりで「月刊厨房」の編集を続けていました。
そろそろ就職を正式に決めてもらおうと、会社に連絡をしたら、従姉妹は退職をしていました。社長に電話を代わってもらったら、私の就職先は自分(従兄弟のこと)が責任を持って探すとのことだったと聞きました。それは初耳でした。
その日は「月刊厨房」の用事で工業会の事務局に行く日だったのですが、事務局に行くと専務理事から、編集を続けてほしいとの話がありました。「月刊厨房」は出版社の社長が副業として受けて、そのサポート役だったのですが、社長の副業が会社に知られることになって、続けられなくなったとのことで、私に担当が回ってきました。
ただし、就職ではなくて業務委託とのことでしたが、打ち拉(ひし)がれていたときだったので、条件などを聞くことなく、引き受けることを決めました。
その日から編集者としての仕事が始まり、大学の卒業までは半年近くあったのですが、他の面白いアルバイト(錦鯉の世話、音楽雑誌の手伝い、割烹の調理補助)は辞めました。大学で他の学部で学ぶこともサークル(合唱団)にも行く時間がなくなりました。
厨房業界のことだけでなく、厨房機器を使う給食をはじめとした食事に関する業界、その所管の霞が関のお役所のことなど、学ぶことは山のようにありました。さらに厨房設備士の資格認定が始まり、厨房機器や給食に関わる製品などの展示会も始まって、月刊の機関誌を作りながらなので、走っているような状態でした。
この仕事は23歳から27歳まで続きましたが、31歳になったときに病院栄養管理HDS研究所の主任研究員となり、厨房や食に関する知識を活かしながら、医療や臨床栄養のことを学ぶことになり、それを書く仕事も主任研究員としてやっていました。
その間には厨房関係の仕事だけをやっていたわけではなくて、スポーツ雑誌の編集と、書籍の執筆(すべてがゴーストライター)も同時にやっていました。
このことは3回目に書かせてもらいます。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕