1985年の日航ジャンボ機墜落事故の現場にいち早く駆けつけたのは自衛隊の捜索部隊でしたが、それに続いたのは地元の警察ではなくて、テレビ局のクルーでした。というのは、歩いて現場に向かうのは道なき道を進むようなもので、ヘリコプターから下ろすしか方法がなかったからです。
初めに現地入りしたのはフジテレビの情報番組のレポーターと撮影スタッフで、そのレポーターは高校(新潟県柏崎市)の同級生であり、剣道部の同期でした。
そのときの苦労話については何度か聞かせてもらいましたが、当時の私は食事関係の仕事をしていたことから、このときに聞かせてもらったことが緊急時の食事についての研究に取り組むきっかけとなりました。
今回のお題の「40年前の食のレポート」はレポーターによるレポートではなくて、現場で作業をする人の食事について記事をレポートした私の話です。
自衛隊は災害現場に入るときには自炊が大原則で、自らの食事を調理して、現地のものは調達せずに済むようにしています。私は厨房機器の社団法人の機関誌作成をしていたことから、厨房機器のお得意様(販売先)である自衛隊の給食についても取材していて、それなりには詳しいつもりでした。
ところが、それは常設部隊の施設の中での給食であって、災害現場における調理については、ほぼ知らないのと同じ(素人同然)状態でした。
「大掛かりなキャンプのようなもの」と非常事態の給食の担当から話を聞いたことがありましたが、実際のことを知りたくて、その後に現地入りした通信社の記者を通じて、静止画(写真)と動画(ビデオ)を得るための算段をしました。
調理の内容、給食の内容は想像とは大きくは違っていなかったのでが、他のメディアでは報道されることがなかった食事中のシーンは衝撃的でした。
まだ、近くに回収中の遺体がある中で、お盆期間の猛暑のために臭いも漂う中で、体力を確保するために肉を必死の形相で食べるシーンを見たからです。そのシーンはリアルな動画映像として夢に見ることがあります。
警察の捜索隊は、自炊ではなくて業者によって届けられた弁当を食べていました。その中身は肉も魚もなく、それでもエネルギー量を確保するために脂肪を多く使ったもので、この内容を「まるで腎臓病食のようだ」とレポートしました。そんなことを書いた私への批判と同時に賛同の声も寄せられたことは40年を経た今でも覚えています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕