「自分が口にした言葉に責任を持つというのは当然のこと」ということはビジネスの世界でも教育の世界などでも言われ続けてきたことで、そのことは多くの書籍にも書かれていて、これは教訓のように伝え続けられてきています。
私が15年間にゴーストライターとして150冊を手がけた大手出版社の書籍でも、何回か書いてきた言葉です。それは私が好んで使ったフレーズということではなくて、著書となっている方々が、表現こそ微妙な違いはあるものの、実際に口にしたことです。
このような言い慣れた言葉、多く使われてきた言葉は、それを口にする人も自信を持った表現をすることが多くなっています。「当然のこと」という言葉に続けて、「であろう」「考えられる」「かもしれない」という言葉が出てくることはありません。
ところが、別の確定的な言葉の後に、不確定的な言葉が続くことは、過去にも今でも、よく見聞きすることです。
テレビ番組のコメンテーターの発言を聞いていると、「思う」「かもしれない」「ではないか」「みたい」「だろう」「なりがち」「そう考える人が多い」「言ってもよいのではないか」「可能性がある」「に近い」「ことなんだろう」「とすれば」「かな」「かも」といった言葉が、確定表現のあとに続くことは日常茶飯事です。
そのような表現をするときには、その前の確定表現を強めに言っておいて、その後には声が小さくなる、トーンが下がるということが多く、そこが聞こえないと確定表現をしている人という印象を抱くことになります。
確定表現の前に不確定表現がつけられることもあって、「多分」「おそらく」「ひょっとすると」「たとえば」といった言葉のほか、中には「私の考えでは」という言葉が先に出て、よくわからない状態にされることもあります。
1人の発言の中に、どれくらい不確定表現があるのかを数えるのは、どれだけ自信を持っての発言なのかを探る方法として使われているくらいです。
ここまで見てもらって、それでも不確定表現が多いのではないか、と感じる人も多いかと思います(「多いかと思います」も不確定表現ですね)。
私が不確定表現について気になって仕方がないのは、書籍のゴーストライターを経験させてもらったことが大きく影響しています。
ゴーストライターの仕事が忙しくなってくると、取材やテープ起こし(テープレコーダーの時代ではなくなっても同じ表現が続いている)は他の人がして、書き起こした(キーボードで打ち込んでも今も同じ表現)原稿を見て、書籍の文章にするということがありました。
それを見ると不確定表現が何度も出てきて、不確定表現を削ってよいのか、どこまで活かすのかということを編集者と相談しました。そこで出た結論は、著者が言いたかったことを的確に表現するために、不確定表現も確定表現もひっくるめて、別の表現をすることで、これは私の得意技となっていました。
今でも会議の席に参加して、確定的なことを言っているようでも、不確定表現が前後にあって、不確定な状態で会議が進められる、裏付けがない状態で結論が出されるということがあります。そのようなことが続くと、だんだんと気持ちが離れていって、だんだんと力を注げなくなってしまうことが最近増えています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕