新たな活動を始めるときに、どこから資金を集めてくるか、ということが重要なテーマになることがあります。資金といっても、その金額だけで活動費も参加するメンバーの生活費を賄おうとする場合もあれば、動くだけの金額(交通費や通信費など)があれば充分ということもあります。
資金の目的によって、集める金額も集める対象も違ってきます。多くの方々の少額を積み重ねて、一定の金額が集まったところで活動を始めるということであれば、本当にわずかな金額で始めることも可能です。
この場合には、目的の金額が集まらなかったといって(言い訳して?)、活動の規模を小さくするか、活動の開始を遅らせるということも許されるかもしれません。
ところが、社会課題の解決のための活動となると、どうしても一定の金額は必要になります。それも短期間だけ実施すればよいということではなくて、できるだけ長く、場合によってはスタートさせた人が誰もいなくなっても(私が死んだとしても)継続できるだけの内容にしなければ、スタートさせる意味と意義がないと考えています。
だからといって、大きな資金が見込めなければ始められないということでは、いつまで経っても社会課題の解決は遠い道のりになりかねません。大きな支援が得られるようにするためには、小さな成果でもよいので見てわかる結果が必要であり、幅広く集めることは重要なアプローチ法となります。
大きな資金を集めることと同時に、小さな資金を集めることにも着手するということですが、その小さなアプローチ先として掲げたときに、多くの場合、反対をされることがあります。
それは少額も、なかなか出してもらえないような人の元を回ることです。このことを評した言葉が、今回のお題の「貧しい人への托鉢」です。
托鉢(たくはつ)は、僧侶が鉢を携えて街を歩き、布施を求める修行を指しています。修行という言葉を使うと、なかなか金品を出してもらえなくても挫けることなくアプローチすることが修行になる、といった捉えられ方をするのですが、修行になるのは寄付を集めて回る人だけでなく、布施をする人にとっても修行となります。
そのような考え方を示したのは、仏教の開祖の釈迦です。
釈迦は托鉢をする先として、貧しい人の元にいくことを説いています。貧しい人は自分のためにお金を使っても、与える喜びを知らないから貧しいままなのだ、という考えです。だから、貧しい人にこそ托鉢をするべきだと教えています。
布施を求める側は、無心に歩き、布施を求めるのではなく、自然に布施されるのを待ちます。布施をする人は、自分の財産を喜んで捨てることで、執着を断ち、功徳を積むとされています。
この連載コラムのテーマの「日々修行」は、托鉢の修行のようなもので、毎日欠かすことなく、さまざまな人に主に健康や学びに関する情報を提供しながら、鉢を携えて訪ね回っているようなものだと考えています。
そして、連載を続けて、何かを求めようということではなく、自然に手を差し伸べてもらえるのを待つようにしています。
ただ、自分の年齢(古希)になって、これを続けて継続できる内容が組み立てられるのか、その疑問は常に付き纏っています。しかし、それを拭い去って歩み続けることが日々の托鉢の修行と合致しているのではないか、との考えに辿り着こうとしています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕