1984年に、これまでの古代史の常識を覆すような大発見がありました。その前年に発見された島根県斐川町神庭の「荒神谷遺跡」から銅剣358本が発掘されました。それまで全国で発見されていた銅剣の数よりも多く、しかも一か所から発見されたということで、歴史ファン、古代史マニアでなくとも強い関心を示すような出来事でした。
その翌年の1985年には銅剣発掘場所から、ほんの10歩のところから銅鐸6個、銅矛16本も発見されました。
今でこそ荒神谷史跡公園が整備され、荒神谷博物館で当時の発見・発掘についてと誰もが知って、楽しめる場となっていますが、私が初めて訪れた1985年の秋には、工事現場のような状態でした。
それでも今のうちに行く価値があると考える多くのマニアがいて、私は文化財保存全国協議会のメンバーとして出雲に出向きました。当時は、出雲市に合併(2011年)する前の斐川町のときで、発掘の初期メンバーから直接、話を聞くことができました。
荒神谷遺跡の所在地は斐川町神庭西谷で、今では「神庭荒神谷」と呼ばれるのですが、なぜ西谷が荒神谷(こうじんだに)になったのか、それは訪問前から抱いていた“素朴な疑問”でした。
現在のパンフレットなどには、「谷の南側に三宝荒神が祀られていたことから」という由来が記載されていますが、それは私たちが現地で初めて聞いたこととは違っています。
職員が発見したときに場所の名を確認しておこうとして、近くで農作業をしていたおじいさんに聞いたときに、「荒神谷」と答えたことから、発掘の届出書類に「荒神谷」と記載して提出されました。
掘り起こされた遺物の内容と、地名のイメージが合致していると大喜びして、大事なことを忘れてしまったのか、届出が受理されて、本格的に調査を始めるときに詳細な地図で確認したところ、間違い(というか真実)が明らかになりました。
正しくは「西谷」でしたが、すでに報道などを通じて「荒神谷」の名が広まっていたことから、特に修正することなく今まで来たということです。正しい地名でなければならないのか、通称でもよいのはないかという話に続いて、「そのうち荒神谷が地名になるかもしれない」ということも言われていましたが、それは今の段階では変化は見られていません。
そのときの話を鮮明に心の中に刻んでいるのは、当時の文化財保存全国協議会のメンバーの一人として、各地の遺跡を回りながら、現実に合わせて遺跡を変えていくことが横行している現実を目にしたからです。
雰囲気に流されずに、“そのまま”の状態で残すものは残すということを伝える活動をしたかったのですが、バブル景気の真っ只中の時期であったので、思ってもみないことが続きました。
古墳の下にトンネルを通した、古墳の上側だけを他のところに移した、宅地開発のために全国トップ10に入る方墳が完全になくなって平らになったということがあり、見ておくなら今しかないということで、各地を回ることはバブル崩壊まで続きました。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕