地元の偉人の続きは、他の偉人・有名人(上杉謙信、山本五十六、田中角栄、坂口安吾、山岡壮一、赤塚不二夫、水島新司、ジャイアント馬場、三波春夫、小林幸子、林家こん平、渡辺謙、プリンセス・テンコーなどなど)ではなくて、前回(日々修行348)に触れた良寛和尚と相馬御風、井上円了の詳細版(私とのつながり)を書かせてもらいます。
私が生まれた新潟県出雲崎町は、江戸時代は天領として佐渡島から金を運び入れ、江戸まで運ぶ中継地で、江戸時代のほうが人口が多かったというところです。
母親の実家の寺院は山の中腹にあって、石段を登るのに5分もかかるようなところで、遠方の真正面に佐渡島が見えました。
出雲崎町は良寛和尚(江戸時代後期の曹洞宗の僧侶)の生まれ在所です。良寛和尚は名主の息子として生まれましたが、人付き合いが苦手で、18歳のときに出家して、その後は30年にもわたって全国を旅しながら修行を続けました。その後は故郷の近くの山寺の五合庵で暮らしています。
私は寺院で生まれて、その後は父親の仕事先に行き、3歳(実際には少し前)から小学校に入る前の未就学の期間には親元を離れて、祖父母と暮らしていました。
寺院に住むようになって初めて祖父の住職から渡された絵本には、良寛和尚の手まり歌やかくれんぼ、竹の子の逸話が描かれていました。
竹の子の逸話というのは、五合庵の縁側の床を竹の子が押し上げていることを知って、納屋からノコギリを持ってきたのですが、竹の子を切るのではなく、床を切り抜いて竹の子を伸ばしてやったという話です。
これには続きがあって、それは絵本ではなくて、後に書物で知ったことですが、竹は成長を続けて天井まで届き、今度は竹を切るのかと周りが見ていたら、天井を切り抜いてあげたということです。
雨が降ると水浸しになってしまうのですが、「雨で濡れた床は拭けばよい、竹が雨を浴びて喜んでいる」と語ったといいます。
幼いときに良寛和尚の諸国行脚の話を聞いて、最も長く(約12年)修行したのは備中玉島の円通寺で、そこまで歩いて行ったということを祖父から聞いて感心したものです。
よくよく考えれば当時は歩くしかなかったわけで、出雲崎町から倉敷市玉島までの700km以上の道のりは子ども心には驚きの移動であり、歩くだけでも厳しい修行だと映りました。
良寛和尚の業績を世に広めたのは歌人・詩人にして文学者の相馬御風(ぎょふう)です。新潟県糸魚川市の生まれで、私は中学2年生のときの糸魚川中学校に転校をしたのですが、通学に使っていたバス停の名前が「御風記念館前」で、何度も通っていました。
相馬御風には「大愚良寛」「良寛百考」「良寛を語る」などの著書があり、歌人としては、童謡「春よ来い」、流行歌「カチューシャの唄」が知られています。東京にいたときに親戚縁者が集まる機会があると早稲田大学の校歌(都の西北〜)を歌うのが儀式でした。
早稲田大学に行ったのは誰もいなかったのですが、相馬御風は早稲田大学の校歌の作詞者で、妻が相馬御風の遠縁だったからのことです。
私が学んだ東洋大学は、前身の哲学館として仏教哲学者の井上円了(えんりょう)が開設した私学で、東洋哲学を中心に学ぶことができる珍しい存在でした。私が通っていた時代には文学部インド哲学科がありました(現在はインド哲学仏教学専攻)。
井上円了は、新潟県越路町(現在は長岡市)の真宗大谷派の慈光寺で生まれ、東本願寺留学生として東京大学文学部哲学科で学んでいます。
私の母親の実家の寺院も同じ宗派で、距離にして25kmほどの距離だったので、子どものときに住職の祖父と一緒に訪ねたことがあります。そのときには井上円了の話をされても何も理解はできなかったのですが、後になって大学選びをするときに縁を感じたところがあります。
そして、大学では図書館に通い、山のようにある蔵書の中から、良寛和尚、相馬御風に関する書籍を好きなだけ読ませてもらうことができました。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕