京都の街は、江戸時代の最後に、“先の戦”と言われる応仁の乱(1467〜1477年)と並ぶほどの焼失をしています。
それは元治元年(1864年)に京都で起こった禁門の変(蛤門の変)で、京都から追放されていた長州藩の一軍が京都守護職の排除を目指して挙兵して市街戦を繰り広げたもので、戦火によって約3万戸が焼失する被害となりました。
焼失範囲は、北は丸太町通(京都御所の南)から南は七条通り(東本願寺の南)、東は寺町、西は東堀川という約5平方キロメートル、今の中京区、下京区のほとんどの地域に及んでいます。
現在の京都の市街地の大半でもあり、観光客が町巡りをする範囲と重なっています。
これを再建するのは不可能との判断もあって、東京への遷都が戦災から4年後に行われ、京都は独自の復興を目指すこととなりました。
禁門の変によって古都の中心部が焼失した京都は、一からの作り直しをする機会でもありました。
明治時代の京都の復興は、千年の都の京都のイメージそのままの文化都市として進められました。この基本を守りつつも、景観を変えない範囲で新たな産業や技術を取り入れ、新たな京都のイメージが作り上げられていきました。
すべてを近代化するのではなく、伝統とのバランスを取りながら、さまざまなものを取り入れていく、これこそが京都特有とされる進取の気風の発想そのものです。
これは突然の出来事にも対応できる日本人の知恵であるとの考え方もされていて、現在の日本が抱えている課題を解決するための改革の原点であり、世界観ビジネス(世界を視野においた日本の文化の強みを活かした活動)のエビデンスでもあると認識しています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕






