井上円了先生といえば、私の母校の東洋大学の創立者であるのですが、円了(えんりょう)という名前は、小学校に入る前、母親の実家の寺院で暮らしているときに知りました。
そのときの印象は“妖怪博士”でした。
母親の実家の寺院には、仏教関係の書物は多くあったものの、どれも難解なもので、たった一つだけ関心を持てたのは妖怪学の本でした。確か、妖怪の絵が多く描かれていて、漢字は読めなくても、なんとなく理解できた感じがしていました。
その書籍の著者として書かれていた名前が井上円了でした。
その書籍に再び出会ったのは東洋大学(東京都文京区白山)の図書館で、哲学・仏教関係の書籍が多くある中に“井上円了先生コーナー”(正式名称は忘れました)があり、妖怪学の研究書が数多く並んでいました。
井上円了先生の実家は新潟県(当時は越後長岡藩西組浦村)の浄土真宗(真宗大谷派)の慈光寺で、先生が10歳の時に明治維新を迎えています。
真宗大谷派の東本願寺の給費生として東京大学文学部哲学科に入学して、ギリシャ発祥の哲学を学ばれています。幼少の頃から身近にあった仏教を西洋哲学の目で見直し、東洋の哲学を研究する中で、仏教思想の中に数千年の歴史がある東洋哲学があることを発見して、東京大学在学中から独自の哲学論、仏教論を専門紙に2年間にわたって連載をしています。
この内容は書籍の『真理金針』、『仏教活論序論』として刊行され、当時のベストセラーとなっています。これらの書籍(一部は写し)も東洋大学の図書館で読ませてもらいました。
東京大学卒業の前年には「哲学会」を組織して、『哲学会雑誌』を創刊。東京大学卒業後は、理想の学校を開設することを公言して、その準備を進めるとともに、哲学・仏教の理論追求を続け、著作数が一気に増えていきます。
そして、29歳の若さで東洋大学の前身である哲学館を1888年に創立しています。
その場所は東京都文京区湯島にある麟祥院の一角で、麟祥院といえば徳川家光の乳母の春日局の菩提寺として有名です。
1904年には私立哲学館大学、1906年には私立東洋大学を設立。それが今の東洋大学へと続いています。
井上円了先生は、大学から身を引いた後に東洋哲学の普及の全国巡講を始め、61歳(1919年)で永眠したのは満州での巡講中のことでした。
とても私のような者が真似をできるようなことではないのですが、井上円了先生のご縁もあり、勝手に弟子のつもりで東洋哲学に即した講話を行い、また文筆も続けています。
〔小林正人〕






