私が「正念さん」と呼ばれていたことについては、前(正念5)に書きました。それは母親の実家の寺院で住職の祖父から愛称のように呼ばれていたことに加えて、大学のときから参加してきた真宗門徒会での呼称でもありました。
社会人になってから、真宗十派の方々と会って話す中から、子どものときに「正念」と呼ばれていたという人のことを何度も聞くことになりました。その出所は浄土真宗の正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)です。
正信念仏偈は、浄土真宗の宗祖の親鸞聖人の著書『教行信証人』の最後に書かれた七言120句(7字×120行)、840文字で書かれたもので、お経ではないのですが、勤行(毎日のおつとめ)や葬儀などでも唱えられています。
阿弥陀如来の徳を讃え、親鸞聖人が阿弥陀如来によって救われたことが述べられていて、すべての人が同じように阿弥陀如来によって救われて幸せになってほしいという願いが綴られています。
正信念仏偈は略して正信偈と呼ばれることがあり、子どもの頃は正信偈としか聞いていなかったので、自分の名前と同じ“正”が使われていると感じただけでした。
少し時を経て、漢字が読めるようになって、寺院での儀式で七言120句の冊子を渡されて、表紙を見たら「正信念仏偈」と書かれていました。これが本名(正式名称)だったのかと気づき、“正と念”が入っていることから、ここから「正念」となったことの理由がわかった気がしました。
正信念仏偈に書かれていることの意味もわからずに、ただただ僧侶の声に合わせて呼んでいるうちに漢字の読み方がわかり、だんだんと考えながら読むようになってきたのですが、読むたびに唱えるたびに違ったことを考えるようになり、これは正信念仏偈の本来の目的と違うのではないか、と思うようになりました。
それは中学生のときだったのではないかと考えているのですが、こう考えるきっかけは神道の祝詞(のりと)との違いを同級生の父親(神社の神主)から聞いたことです。この祝詞については、別の機会に書きたいと思いますが、余計なことを頭に浮かべず、一心に唱えることが自らの心の平安、静寂につながるという考えでした。
そのときから、雑念を払い除ける(雑念を払い除けることも忘れる)ようにして、書かれている文字と向かい合うようになりました。(当時は、そこまでの考えはなかったはずですが)
今では、正信念仏偈を常に唱えることはしていないものの、自分で書き写した840文字は毎日のように読んで(ときどき黙読するだけ)、社会の幸せを願うことだけは続けています。
〔小林正人〕






