正念2「書くことによる平穏」

“書く”ということは、ただテーマがあって、書くべき条件が整えられていれば実行できるわけではありません。書くということを、文字を並べていくこと、自分の意思を伝えるだけという意味で使うとしたら、今の誰もが手のひらで発信できるようになった時代には、それほど構える必要はないかと思います。

また、書くというのは手段であって、書いた結果が重要という考え方をするなら、どんな書き方をしてもよいということになるかもしれません。

私が東京にいた時に理事を務めていた作家団体の会員の中に、小説を書くときには身を整えることが重要と話していた著名な作家がいました。

身を整えるといっても、服装や髪といった身だしなみのことであろうと思っていたのですが、家の近くに来たということで予約なしに訪問したら、これから外出するのかと思うほど、きっちりとした外見で、机に向かっていました。

そのときに聞いたことで今も心に残っているのは、「だらしない格好で書くのは読者に失礼」という言葉です。そして、「正装をして書くのは、集中力を高めるために必要」という言葉も聞きました。

このようなことを記すのは、私には正装をして書くという習慣がなくて、外見や身だしなみによって文章の中身が変わる、伝わる内容が異なるという発想をしていないからです。

私にとって重要なことは、書くことそのものが“瞑想”のようなもので、書くことによって集中力が高まり、書くことの意義が高まり、その結果として書いた内容が高まっていくという考え方をしているからです。

そのためには、書く内容によって、整えるべき環境が違っていて、雑念が完全に取り去られる条件もあれば、少しは雑念が残っていたほうがよいということもあります。これは、書くという行為は同じであっても、書くもの、書く立場が違っているということを経験してきたからです。

その経験というのは、書くことでお金がもらえるようになったのはゴーストライターであり、団体の機関誌やリリースなどの原稿を記名者の代わりに書くという、表には名前が出ない執筆者という、おそらく他にはないことを40年近くもやってきたことです。

作品ではなくて、書く行為そのものが重要なこととなり、これが心の平穏につながり、その平穏な自分が書くことによって他にないものを生み出すという感覚でした。

このことは寺院の出身なのに坐禅や瞑想から最も離れた宗派であったことが、大きく影響しているようです。
〔小林正人〕