正念5「在家門徒会との出会い」

“正念”という言葉を使って書こうと考えたきっかけの一つは、私が大学生の時から今に至るまで一部の人たちに呼ばれ続けている俗称と同じだったからです。

その俗称は「正念さん」で、一部の人というのは真宗在家門徒会のメンバーです。このメンバーは、東洋大学でインド哲学を同時期に学んだ13人です。初めて在宅門徒の集まりに参加したのは大学2年生の時だったので、今から50年も前のことになります。

真宗は浄土真宗のことで、その開祖(宗祖)は親鸞聖人です。

真宗在家門徒会のメンバーは真宗十派に属する寺院の息子や孫にして、跡取りではない立場の人(在校生と卒業生、中には中退の人も)が、在家門徒として学び続けようということで始めたものです。

私は母親の実家(新潟県出雲崎町)の運行寺(真宗大谷派)で生まれ、その後は父親の赴任地で両親と一緒でしたが、3歳の時から小学校に入る前まで親元を離れて寺院で祖父母と暮らしていました。

母親は次女であったので、いわゆる外孫に当たります。長女には男児が3人いて(私にとっての従兄弟)、その三男が私より1年前に生まれているので、世間的な序列では4番目ということになります。

それなのに、寺院で生まれたのも、親元を離れて寺院で暮らしていたのも私だけでした。そのおかげで、“三つ子の魂”に仏教の基礎的な感覚が刻まれることになりました。このことについては、後に詳しく書くことになると思います。

その寺院は日本海側の山の中腹にあり、遠景に佐渡島が見える位置にありました。そこから、それほど遠くない越路町に同じ宗派(真宗大谷派)の慈光寺がありました。慈光寺は、東洋大学の創立者の井上円了先生の実家として知られていて、祖父(運行寺の住職)と一緒に訪ねたことがあります。

本人としては記憶には残ってはいないのですが、モノクロ写真には慈光寺の前で祖父と並んで写っていたので、行ったことだけは間違いありません。

私が祖父と祖母から「正念」と呼ばれるようになったのは、慈光寺を訪ねた後のことで、それについて祖母から話を聞いたのは高校生の時で、寺院に行っていたときでした。

通っていた柏崎高校は父親の母校で、ここでも親元を離れていたこともあり、柏崎からバスで1時間ほどの出雲崎には月に1回は行っていました。

「正念」と呼ばれながら過ごした寺院での経験が、第一の“正念場”だったと感じたのは、東洋大学に通うようになって、真宗在家門徒会で自分の短い過去を振り返った時でした。
〔小林正人〕