正念7「西本願寺と東本願寺」

浄土真宗というと西本願寺と東本願寺が一般にはよく知られています。京都駅から北へ徒歩5分のところの七条烏丸の東本願寺は浄土真宗大谷派の総本山です。

東本願寺の西に位置しているのが七条堀川の西本願寺で、京都駅から徒歩では17分かかります。西本願寺は浄土真宗本願寺派の総本山です。

私の母親の実家は浄土真宗大谷派の寺院なので、ついつい東本願寺のほうを先に書いてしまうところがありますが、一般には西本願寺、東本願寺の順で呼ばれています。

西本願寺も東本願寺も宗祖の親鸞聖人をお祀りしているのですが、西本願寺は浄土真宗本願寺派(龍谷山本願寺)、東本願寺は真宗大谷派(大谷本廟)と別の宗派を名乗っています。

親鸞聖人が浄土真宗を開いたのは、1224年とされています。

浄土真宗が浄土真宗本願寺派と真宗大谷派に別れたのは、石山本願寺(現在の大阪城の場所にあった)と織田信長の10年にわたる(1570〜1580年)争い(石山本願寺一揆)までさかのぼります。

石山本願寺内では、信長と和睦するか、徹底抗戦するかで意見対立が起こりました。和睦を主張したのは宗主の顕如と、顕如の三男の准如でした。徹底抗戦を主張したのは顕如の長男の教如でした。

顕如が和睦を決めて、石山本願寺は信長に明け渡されることになり、顕如は浄土真宗の宗主を三男の准如に譲りました。

信長が本能寺の変で討たれたのちに、顕如は豊臣秀吉から七条堀川に土地の寄進を受けて、御影堂と阿弥陀堂を建築しました。これが現在の西本願寺の始まりです。

徹底抗戦を主張した教如は徳川家康に接近して、七条烏丸に寺の寄進を受けて、東本願寺を作っています。これが西本願寺と東本願寺が分裂した理由です。

1602年に東西分裂してから、今も続いていると思われがちですが、真宗十派による真宗教団連合が1923年に設立されて、親鸞聖人を宗祖と仰ぐ真宗十派が宗派の垣根を越えて、教えを広めています。

真宗十派は、他の宗派とは異なり、親鸞聖人の家族から派生した四派と、親鸞聖人の弟子から派生した六派に分けられています。スタートこそ違えども、どちらも直系の子どもが継いでいくことは同じです。

そもそも仏教では出家者(僧侶)は煩悩を断つということから妻帯禁止が貫かれてきました。明治時代になって緩和(解禁)されていますが、浄土真宗は初めから禁止はされていません。そのことが、今の繁栄(仏教徒の2割が浄土真宗の信者)につながっていると考えられています。
〔小林正人〕