正念9「自業自得の苦しみ」

“地獄の苦しみ”というと、誰も経験したことがない苦しい出来事を指していて、地獄に堕ちたくなければ善行を積むこと、善行に時間を割くことができない場合は代わりのもの(その多くはお金)を提供することというのが多くの仏教宗派が伝えていることです。

これに対して、私のベースとなっている浄土真宗には地獄が存在していません。浄土真宗の門徒(他宗では信者)は、亡くなったら即座に誰もが極楽に行くことができるという考え方をしています。

地獄があるとしたら、それは生きている現世に存在していることになります。浄土真宗の宗祖(開祖)の親鸞聖人の教えの中に「地獄」という言葉は出てこないものの、同じ発音をする「自業苦」(じごく)が教えの中にはあります。

自業は自業自得の前の部分のことで、自分が行ってきたことによって苦しむのは「自業苦」だとされています。これは何も悪いことや失敗をしたことを指しているだけではなくて、自らが行ったことが結果として現れているということで、よいことをしても苦しむことがあります。

他の人よりもよい生活をしている人が今の生活を崩したくない、もっとよい生活をしたいと望み、それがかなえられないこと、思ったよりも歩みが鈍いことを苦しみのように感じることがあります。これも自業苦となります。

この苦しみを、楽に変える生活ができれば、業の苦が楽になるということで「業苦楽」(ごくらく)となります。自業苦がなければ業苦楽もない、つまり苦しみを感じて自分を変えることができた人は、すべてが極楽に行けるという極楽往生という発想です。

亡くなった人の魂は、この世に残っているわけではないので、お墓は祖先を偲ぶ場であって、そこで祈りを捧げると魂が現世に戻ってくることもありません。お盆は他宗では迎え火と送り火が行われますが、浄土真宗では迎え火も送り火もなく、お盆に行われていることも他宗と比較するまでは知りませんでした。お盆に墓参りをすることはあっても、これも故人や祖先を偲ぶために行くだけです。

現世で業苦楽(極楽)を感じることができれば、亡くなったときに即座に自動的に極楽浄土に行けるわけで、閻魔大王のお裁きを受けることもない、そもそも裁判が行われる冥土に行くこともないわけです。

「自業苦」を経験しなければ絶対に極楽に行くことがないということではなくて、「自業苦」を感じた人であっても極楽に行くことができるということですが、この説明は他宗の方には理解しにくいことのようです。
〔小林正人〕