自業苦・業苦楽3 自業苦のきっかけ

私の母親の実家(新潟県出雲崎町)は浄土真宗の寺院で、ここで私は生まれて父親の勤務先で暮らした後に、3歳から3年間(小学校にあがる直前)まで、再び母親の実家で暮らしていました。

実家に帰って出産するというのが普通に行われていた時代のことです。父親は警察官になったばかりのときの赴任地が母親の実家の近くであったことから、寺院に下宿をしていたということです。

佐渡島が遠方に見える海岸沿いの町から、新潟県南部の山奥の地域で暮らすことになり、70kmほどを移動しました。そこは松之山温泉が有名な村ですが、当時の警察組織最大の不祥事が1958年の1月20日に起こりました。

松之山村の東川地域の駐在所の22歳の巡査が村民3人を射殺するという後に松之山事件と名付けられた事件が起こりました。父の赴任地から最も近い駐在所であったことから、第一報を受けて父親が単独で現場に原付バイクで駆けつけたところ、すでに巡査は拳銃自殺していました。

その時のことを後に父親から聞きましたが、父親は警察官になって初めて拳銃に実弾をこめて出動したとのことです。

事件の日は小正月で、巡査は隣の部落へ私服で年始回りに行き、酒に酔っての帰途に被害者の家に寄り、些細なことで口論になりました。駐在所に引き上げたもののおさまらず、制服に着替えた上で拳銃を持って訪れ、凶行に及んだといいます。

些細なことというのは、被害者は家族とともにウサギ汁を作って酒を飲んでいましたが、密猟したウサギであることがわかり、巡査が狩猟法違反をとがめたことでした。それに反発した村民が、巡査の個人的な行動をなじったことが原因だったと当時の地元紙にも書かれています。

当時は独身の巡査が駐在所に勤務することがあり、松之山事件をきっかけにして、駐在所は既婚者が赴任することが全国的に決まりました。

父親は既婚者であり、最も現場に近いところに勤務していて土地勘もあったことから、父親が赴任することになりました。

住民の不信感は強く、制服を見ただけで住人は家に隠れる、子どもは泣き出すという状況で、そのようなところで、まだ2歳であった私を育てることは難しいということで、母親の実家に預けられることになりました。

後に母親から聞いたところでは、父親は毎晩、1軒ずつ村民の家を訪ね、風呂をいただき、夕食を一緒に食べるということを2年間繰り返して、やっと不信感を払拭することができたということです。

まだ3歳になる前のことでしたが、そのような雰囲気はなんとなく感じていて、寺院の祖父母からも叔母からも褒められるほど、寂しいとか、わがままなことを言わない子どもだったと聞いています。
〔小林正人〕