自業自得の自業は、自らが行ったことだけでなくて、自分に影響を与える人が行ったことも含まれていて、その人に影響を与えた出来事も自業とされることがあります。
私は3歳を前にして親元を離れて、母親の実家の寺院で暮らすことになった経緯は前回(自業苦・業苦楽3)書きましたが、その寺院は新潟県出雲崎町という漁師町にあり、近所の人も門徒(檀家)もほぼ漁師か関係者というところでした。
江戸時代は天領として佐渡島から金を運び入れ、江戸まで運ぶ中継地のようなところで、江戸時代のほうが人口は多かったというところです。寺院は山の中腹にあって、石段を登るのに5分もかかるようなところで、遠方に佐渡島が見えました。
出雲崎町は良寛和尚(江戸時代後期の曹洞宗の僧侶)の生まれ在所で、名主の息子として生まれました。人付き合いが苦手で、18歳のときに出家して、その後は30年にもわたって全国を旅しながら修行を続けました。その後は故郷の近くの山寺の五合庵で暮らしています。
寺院に住むようになって初めて祖父の住職から渡された絵本には、良寛和尚の手まり歌やかくれんぼ、竹の子の逸話が描かれていました。
竹の子の逸話というのは、五合庵の縁側の床を竹の子が押し上げていることを知って、納屋からノコギリを持ってきたのですが、竹の子を切るのではなく、床を切り抜いて竹の子を伸ばしてやったという話です。
これには続きがあって、それは絵本ではなくて、後に書物で知ったことです。竹は成長を続けて天井まで届き、今度は竹を切るのかと周りが見ていたら、天井を切り抜いてあげたということです。
雨が降ると水浸しになってしまうのですが、「雨で濡れた床は拭けばよい、竹が雨を浴びて喜んでいる」と言ったといいます。
幼いときに良寛和尚の諸国行脚の話を聞いて、最も長く(約12年)修行したのは備中玉島の円通寺で、そこまで歩いて行ったということを祖父から聞いて感心したものです。
よくよく考えれば当時は歩くくらいしかなかったわけですが、出雲崎町から倉敷市玉島までの700km以上の道のりは子ども心には驚きの移動であり、歩くだけでも厳しい修行だと映りました。
曹洞宗の開祖の道元禅師の教えでは、修行に終わりはなく、生涯続けなければならないということを後々に知り、母親の実家が浄土真宗でよかったと感じたのですが、その考えを改める時期が私にも訪れました。
それは東洋大学で学んだ4年間で、インド哲学の書籍が山のようにあった図書館に毎日のように通って、余った時間のほとんどを書籍と格闘する中で、各宗派の違いを知ったときのことでした。
〔小林正人〕






