「見損なった」という言葉は、見間違える、見誤るという意味合いがあって、本来なら低く評価していたことの反省の弁として使われるものです。
本人の実力を把握していなかったために、それに見合わない仕事や役割を与えた経営者や上司に、自らの過ちを認めて、詫びるときに使うのが正しいはずです。
ところが、もっと高いレベルであったと思っていたのに、実際は低いレベルであったという状態を示すために使われることがあります。その使い方が正しいと思っている人も少なくありません。
これは言葉が間違っていた、言い間違いであったというよりも、間違った認識のままに使っている人が問題であって、「見損なった」という言葉には責任はないのです。
正しい意味合いが伝わるように言うとしたら、「見損ねた」が相応しい使い方となります。
この「見損ねた」を間違った意味で使っている人もいて、混雑しているところで一緒に来た人を「見損ねた」「見損なった」と口にしている人がいて、日本語を理解していない(日本人も外国人も)のだろうな、と感じさせられることがあります。
正しくは「見失った」であり、どこにいるのか探すことになります。それを「見損なった」と言われたら、そんな人は探さないでよい、むしろ離れていたほうがよいという意味に捉えられてしまいかねません。
そもそも「見損ねた」「見損なった」は、その人の本質を見ていない、本質を見抜いていないと言うことが原因であった、そのようなことにならないように注意したいということを伝えるために、このような言い間違いを例として伝えるようにしています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕