「ボロは着てても心の錦」は、たとえ襤褸を着ていても心の中は錦を着ているように美しいということで、外見よりも中身(内面)が大事だということを意味しています。
正式な用語としては「襤褸を着ても心は錦」となるのでしょうが、水前寺清子が歌唱したヒット曲「いっぽんどっこの唄」のおかげ(せい?)で、「ボロは着てても心の錦」のほうが広く知られています。
襤褸(ぼろ)はボロボロの衣服のことで、錦(にしき)は金糸・銀糸や数々の色糸を用いた織物のことです。襤褸については、金言のテーマと合致するところがあるので、徐々に深い意味合いについて示していきます、
錦は美しい、綺麗だというだけでなく、豪華なもの、鮮やかな糸によって描かれる文様を指しています。
襤褸については「今日の襤褸、明日の錦」という表現があるように、「今はボロを身につけているが、努力を怠らなければ苦労が実って、そのうち美しい衣服を着るほど出世できる」ということを指しています。
つまり、ボロとは苦労の“別称”であって、決して軽蔑するような“蔑称”ではないということです。
よいことが起こるという前向きな意味を「ボロは着てても心の錦」には込められているのですが、その一方で「人生は浮き沈みが激しく、また人の運命も定まりにくく変わりやすい」という意味合いも含んでいます。
努力をすれば苦労は報われるものの、その努力を怠ると、また襤褸を着るような生活に戻りかねないという恐ろしい意味合いもあるのですが、「いっぽんどっこの唄」は、そこまでのメッセージは含まれていないはずです。
〔セカンドステージ連盟 小林正人〕






