1000曲以上を作曲した米山正夫先生が作曲家デビューをしたのは1934年だったということを話すと、戦時中の軍歌も作ったのではないかと言われることがあります。
「兵隊の靴」というお題のコラムを書いているので、なおさら、そのような想像をさせるかもしれませんが、戦時中(1942年)に書いた楽曲が“敵性的”ということで発売4日での発禁処分という「記録を作った」(本人談)という逸話が残されています、
1944年に満州の放送局勤務となり、1945年に関東軍に現地応召(召集令状を受けての軍務)されて、敗戦と同時にシベリア抑留となっています。
米山先生と巡り会えたのは2ルートあって、1つは水島治男先生のルートでした。水島先生は「改造」という雑誌の編集長を務めた方で、日本ペンクラブの事務局長もされました。
水島先生の御自宅は文京区白山にあって、私が通っていた東洋大学(何かと話題になった法学部)も白山にありました。知人の紹介で御自宅に顔を出すようになり、『改造社の時代』(戦前編、戦中編)の2冊の書籍の手伝いをさせてもらいました。
1977年に水島先生は逝去されましたが、そのときに関係者から私は“最後の弟子”と紹介されました。私自身としては、そのような感覚はなかったのですが、このフレーズが役立ったのか、米山正夫先生を初めて訪ねたときに「君が水島先生の最後の弟子か」と言われました。
仲介してくれた方が、私が新潟県柏崎市の出身で、地域には米山(よねやま)という1000mに少し足りない名峰があって、米山登山は高校の年中行事でした。紹介者には米山の話をしたことがあり、私の名前(正人)を正夫と勘違いしていて、そのことが縁のようなものを感じて、米山先生に「兵隊の靴」という題のコラム原稿を書いてもらうきっかけとなりました。
〔セカンドステージ連盟 小林正人〕






