看脚下は禅宗の重要な教えに使われる言葉であって、決して足元を見て自分の履き物を揃えることを促す言葉ではない、ということは前回書きました。それに続いて、禅宗で使われるようになった由来について書いていきます。
中国・宋代の禅僧の法演が、三人の弟子を連れて暗い夜道を明かりを灯して寺院に帰る時のこと、風が吹いて火が消えて真っ暗になってしまいました。
立ちすくんだ三人に、師匠の法演は質問を投げかけます。
「暗い夜道を歩く時には明かりが必要だ。その明かりが消えた。この暗闇の中を、どうするか」と。ここでいう暗闇は、自分の行く先が真っ暗になったということで、思いもよらない災難に遭い、前途暗澹たるところを、どのように切り抜けていくかとの問いです。
初めの自分の気持ちを言葉に出した仏鑑は「すべてが黒一色の暗闇は、逆にいえば美しい赤い鳥が夕焼けの真っ赤な大空に舞っているようなものだ」と答えます。これに対して師匠は反応しません。
次に、仏眼が「真っ暗の中で曲がりくねった道は、まるで真っ黒な大蛇が横たわっているようだ」と答えます。これにも師匠は反応しません。
最後に、圜悟克勤が「看脚下」と答えました。「真っ暗で危ないから、つまずかないように足元を見て歩きましょう」と答え、師匠に絶賛されました。
これは私なりの“超訳”ですが、パニックになるようなことがあったら、余計なことは考えずに、足元に気をつけて進むことが重要であり、足元を見ると同時に我が生き方を見直して、未熟である自分に気づくことに大事な意味があるということが「看脚下」には込められているということです。
〔セカンドステージ連盟 小林正人〕






