金言の真理64「唯我独尊」3

悟りを開いて仏陀となったお釈迦様(インドのシャカ族の部族長の王子のゴータマ・シッダールタ)は、生まれた直後に発した「天上天下唯我独尊」のとおりに、「ただ一人、誰とも代わることがない尊い存在」となったことを2回にわたって書いてきました。

天上天下唯我独尊の考えは、別の連載コラムの「正念」でも書いていますが、正念(しょうねん)はマインドフルネス(mindfulness)と同等の意味があって、心と体を客観的によく観察する意識的な行為で、「この瞬間に意識を集中させる念」を意味しています。

そのための瞑想も静寂の先の悟りを得るための実践と考えられています。

悟りは煩悩や迷いが取り払われ、永遠の真理を会得することです。悟りの境地に達すると、雑念がなくなり、執着心から解放された感覚に至ることができます。そして、悟りを開くことによって、すべてに満たされた感覚となり、物事の真理を自然と知ることができるようになります。

悟りを開くためにする行動が修行であって、坐禅をすればよい、質素な生活をして余計なものを食べなければよい、他人に感謝されることをすればよい、ということではありません。

悟りを開くのは修行の最終的な目的地点であって、初めから悟りを開くことを求めるのではなく、さまざまなことを修行として受け入れ、善い結果となるように努め続けてきました。

私の場合は、瞑想と同じ領域になることができたのは“物書き”に集中している時間でしたが、書くことによって広く健康に関わるコンテンツが積み重ねられていきました。

これこそが財産との意識もあったものの、これは自らの“二つの目”で見たことだけの積み重ねだったようです。

それとは異なる“第三の目”は自分が意識していないときも、また眠っているときも見開かれていて、その第三の目が捉えた感覚を後に心に語りかけてくれる重要な存在(感覚器)です。

第三の目については、次回(金言の真理65)に続きます。
〔セカンドステージ連盟 小林正人〕