金言の真理95「天上大風」3

「天上大風」(てんじょうおおかぜ)の書を遺した良寛さんのことを“さん付け”で呼ぶのは、私が母親の実家の寺院で生まれて、それから3年後に親元を離れて小学校に入学する直前の期間に暮らしていた新潟県出雲崎町が、良寛さんの生まれ在所だということがあります。

地元(出雲崎町)では今でも親しみを込めて「良寛さん」と呼ばれていますが、新潟県内に広げると「良寛和尚」と普通に呼ばれています。呼び捨てで「良寛」と呼ぶことなどは御法度で、固有名詞の良寛記念館も「良寛和尚記念館」と2文字を加えて呼ばれています。

新潟県から離れた人にも「良寛和尚」は刻まれていて、地元出身で総理大臣となった政治家の私邸に通っていた時に、母親の実家の話の中で出雲崎町(選挙区の一つ)のことを話題にしたら、「良寛和尚の!」と言われていました。

それがきっかけになったわけではないのですが、一般には良寛禅師と呼ばれている中で、私は「良寛和尚」と口を突いて出てきます。

良寛和尚が修行した場として有名な岡山県では、「良寛さん」「良寛和尚」「良寛様」とも呼ばれていました。これだけ多彩な呼び方をされるのは、逸話の多さもあるのかもしれませんが、生涯を托鉢で仏道に励んだことが評価されてのことと考えています。

「良寛和尚」は江戸時代後期の曹洞宗の禅僧で、備中玉島(現・岡山県倉敷市)の円通寺まで歩いて行ったと、私は住職の祖父から聞きました。

それは安永8年(1779年)、22歳の時のことだったということですが、その当時は約700kmの距離を歩いて行くしかなくて、12年の修行の後にも歩いて諸国巡りをして越後に戻っています。

生涯を修行僧として励んだ評価と「天上大風」の真理と一致しているのではないか、と考えて、これを金言として抱いています。
〔セカンドステージ連盟 小林正人〕