派手な衣装で有名な作家というクイズの質問に対して「志茂田景樹」と答えるのは、ある程度の年齢層に限られているかもしれません。
志茂田景樹先生は、日本文芸家クラブの現役の会長で、私が日本文芸家クラブの理事を務めていたときには理事長でした。現在の理事長は、仲がよかった矢月秀作さんです。
矢月さんは累計100万部を超えるハード・アクション小説家であるので、先生と書かなければならないのは承知していても、日本文芸家クラブで一緒に理事を務めた警察小説の大家の息子さんで、“ちゃん付け”で呼んでいたので、その感覚が今でも抜けていません。
小説は、事実・史実をそのまま書くのではなくて、そこに作家の感性をどこまで入れられるかが勝負どころですが、志茂田先生は矢月さんに限らず多くの小説家に影響を与えたことが知られています。
その影響の一つが、「もしもの発想」です。志茂田先生の小説というと、派手なファッションで有名になった頃は、さまざまなテーマで書いていましたが、初期の作品で編集者や他の作家に評価されているのは歴史をベースとしながら、重要な転換点の出来事が違った結果になっていたら、その後はどんな展開になっていたのか、そこを書いていくということです。
その例として、ご本人から聞いたのは「本能寺の変で信長が亡くなっていなかったら」ということで、確かに数多くの選択肢があって、その後の歴史も大きく変わってことは間違いがないことです。
私は文筆の世界に身を置いていたといっても小説は書いていなかったので、「もしもの発想」は一般書籍や企画立案、団体の構築などで活かさせてもらいました。
企画や団体に関わることについては、「日々修行」の中でも少しずつ書いてきましたが、それらのことをまとめて表現すると「うまくいかなかったときのことを考える」ということになりそうです。
岡山に移住するきっかけの一つであった地方創生の仕事をしたときに、大手広告代理店の依頼で備前地区の自治体を3回訪れ、観光と健康を結びつけた活動を提案しました。そのときに大規模な感染症が発生したときの対策も企画に入れていたのですが、地方創生の補助金を得ることができなくて終了しました。
その後に私が代表を務めるNPO法人の当時の理事と話をしているときに、地方創生で訪れた地域の話が出て、詳しく聞いてみると、理事の出身地に近いところでした。その近くに介護施設を作る計画があり、それを担うこととなり、家族で移住したということは、これまでに何回か触れてきました。
移住してから自治体の役場の担当に連絡をしたところ、再び観光と健康を結びつけた地方創生に取り組みたいという話が出て、企画立案して、内閣府から補助金が得られるところまで進みました。
実際に始められるとなったときに、どうしても気になっていた感染症対策について企画書に入れました。当時はインバウンドが急激に伸びていて、来日者を呼び込むということは感染症のリスクも高まるという危機感を抱いていました。
これまでとは異なる感染症が拡大したときのことも考えて、これは表に出さずに、内々の検討資料にすることを提案しました。しかし、それは外すように言われました。
補助金を得てスタートしたものの、その後に新型コロナウイルス感染症が拡大して、“もしも”を考えて想定したことが、すべて起こり、地方創生の活動は途中で終わりました。
このことについて、内閣府の知人から危機管理の例として見せてほしいと言われて、私が作った“もしも”対策を役立てることはできました。それなりの評価もされましたが、危機管理のコンサルタントは起こってからなら誰でも対応できることです。
その危機が起こらないようにする、起こったとしても被害を最小限にするといった起こらないときからの対応は、“もしも”のことが起こったときには、どんな影響を周りに与えるのか、自分はどうなってしまうのか、自分の先々までを考えておく必要があります。
そのためには、広く見るための経験と知識、専門性もありながらの全体を見る力が必要だということは今でも新たなことを始めるときには強く意識しています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕