「人生の最終コーナー」のお題で前回(日々修行331)、私自身の残された年数を、どのように過ごすべきかを考えてみました。
私の場合の人生の最終コーナーを曲がり切ったのが60歳を少し過ぎたところで、それが正しかったとすると、古希になるまでの10年間は、もっと別の走り方があったのではないか、と今さらながら反省をしているところです。
これから先は早く到着することではなくて、また長生き合戦ではなくて、何を残したかが重要で、その指標としたいのは「人の一生は重き荷を背負って遠き道を行くがごとし」という言葉です。
これは徳川家康の遺訓とされていますが、実際の遺訓は以下のようなものであると伝えられています。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思へば不足なし、心に望起こらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思へ。勝事ばかり知りて、負くる事をしらざれば、害其身にいたる。己を責て人を責むるな。及ばざるは過たるより勝れり」
読みやすいように句読点を加えましたが、それでも読みにくいかと思います。
この遺訓によって徳川家康が“寡黙な苦労人”とのイメージされるようになったかと思いますが、この遺訓とされるものは後世の創作であったことが明らかにされています。
後世というのは、徳川幕府の15代が終わり、明治維新を迎えてのことです。
幕末期に旧幕臣の池田松之介が徳川光圀作と伝えられる『人の戒め』を元にして書いた『東照宮御遺訓』は、徳川家康の花押をつけた偽文書であることが、徳川家康の研究者によって解明されています。
そもそも“徳川光圀作と伝えられる”と書いたように、『人の戒め』も徳川光圀によるものかもわからない状態です。
それなのに徳川家康の遺訓として後生大事に伝えられているのは、幕末の幕臣の高橋泥舟が日光東照宮に奉納して、広く知られることになったからです。高橋泥舟は山岡鉄舟の義兄で、勝海舟、山岡鉄舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれています。
そのことは書籍の『そこが知りたい』をゴーストライターとして取材したときに知ってはいたのですが、あまりに有名な遺訓を「実は違っていた」と書くわけにはいかなかったので、気になりつつも胸に収めてきました。
急ぐことなく、不自由を常として、心穏やかに着実に進むことが重要であるということを心に刻んで、健康で歩むことを大事としています。それを貫くことができれば、スタートダッシュで出遅れたとしても最終的には目的を達成することができると考えています。
スタート地点は誰もが一緒とは言われるものの、それは理想(幻想?)であって、その差を埋めるのは果敢に挑み続けることというのが、今の私には強く響いています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕