日々修行334 吉備の穴海

岡山には、移住の準備を除いて15回と、全国各地の訪問回数の中でも最も多くなっています。取材、学会や研究会、講演や講習、観光などですが、その初めの訪問は古墳巡りで、1985年のことでした。

古墳が多い地域というと近畿(兵庫県、京都府、大阪府)がイメージされることが多いのですが、岡山県には約1万1900基の古墳があって、全国で5番目に多くなっています。代表的な古墳といえば前方後円墳ですが、岡山には約130基が確認されています。

その多くは吉備地域にあり、大小20基以上が集まっています。

全国の前方後円墳の中で4番目に大きい(全長約350m、高さ約30m)造山古墳(岡山市北区新庄下)は、自由に立ち入って墳丘に昇ることができる古墳としては最大の大きさです。この状態を指して、「国内有数の古墳王国」と呼ばれることもあります。

岡山県内の古墳を巡った後には、岡山と倉敷の市街地を通ったときに、あまりに真っ平らな土地で、「まるで埋立地のようだ」と感じました。

岡山の方々と交流する中で聞いた、これは何かと疑問が湧いてきた言葉が、お題の「吉備の穴海」です。今はネット検索によって簡単に地図で比較できるので、説明がいらないような状態ですが、当時は国立図書館で調べて、やっとわかりました。

真っ平らと感じた岡山平野の耕地地域の約2万5000ha(ヘクタール)のうち約2万haが干拓地で、ここが吉備の穴海だったところです。穴と表現されるのは南側に児島という名の瀬戸内海の島(小豆島より少し大きいくらい)があって、その間が浅瀬の海になっていたからです。

ここが初めに埋め立てられた(1584年)のは今の早島町で、堤防を作って開墾する宇喜多堤が作られました。この名は開墾を進めた岡山城主の宇喜多秀家にちなんでいます。

備中松山藩による今の倉敷市の一部の開拓から始まり、大規模な干拓が進められたのは岡山城を継いだ池田忠継(初代岡山藩主)の時代です。池田忠継は池田輝政(姫路城主)の次男で、姫路(52万石)から岡山(28万石)へ移ったことから、それまでの家臣のための土地が必要になりました。

これが石高増強策としての大規模な新田開発が始まりで、吉備の穴海に流れ込んでいる岡山三大河川(高梁川、旭川、吉井川)の大量の土砂が、それを可能にしました。

埋め立てられた地域は、東は西大寺付近(岡山市東区)の吉井川から西は倉敷市の近くを流れる高梁川まで、北は山陽自動車道から南は児島半島の北の山裾までの、東西50km、南北20kmという琵琶湖に匹敵するような広範囲です。

この地域には島とつく地名が多いのは、実際に島だったところの名残です。

吉備の穴海の地図と古墳の位置を見比べてみると、昔の海岸近くか島であったところが多くて、真っ平らな地域には古墳はみられません。これを見ても埋立地だということは納得ができます。

これだけ広い平らな環境は、ウォーキングにもってこいで、これを活かしたいと移住後の8年間ずっと考えていたのですが、やっと実現できそうな条件が整ってきました。その初めの活動として計画しているのは健康と防災を組み合わせたウォーキングです。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕