人脈という言葉を知ったのは、高校生のときなので50年以上も心に刻まれています。父親と母親の実家がある地域は当時の選挙区では新潟県3区で、田中角栄の選挙区でした。
1972年に総理大臣になったときには、私は柏崎高校の3年生で、近所で提灯行列があったときに、こんなことが今の時代にあるのかと驚いたものです。そのときに同級生の父親が後援会の役員として提灯行列の前方にいました。
(この方が、大学1年生のときに田中邸を訪ねるきっかけを作ってくれて、その後の私の人脈のスタート地点になりました)
総理大臣選出の前に発行された『日本列島改造論』の先駆けのように新潟県内は公共建設続きで、これが金権まみれということで、今でいう文春砲のターゲットとなった「田中角栄研究-その金脈と人脈」の連載で、金脈と同時に人脈が広く知られることになりました。
知っている人の数が多ければよいという人脈ならフェイスブック仲間が3000人以上もいることを誇ればよいわけだし、偉い人ならよいという人脈なら“名刺ジャンケン”で勝てるだけの肩書きを集めればよいということになります。
しかし、数多くの知り合いも、その肩書きも使ってナンボ、活かしてナンボで、それこそ金脈につながらないものは人脈ではない、ということを金脈と人脈の総本山に近い人から聞きました。
選挙区の支援者のおかげで、まだ大学に入学したばかりなのに東京・目白台の田中邸に行き、錦鯉の世話をすることになりました。これは叔父が新潟県の職員で、錦鯉センターの所長を務めていた関係で、錦鯉のことを案外と知っていたという偶然でした。
田中角栄さんが文春砲から発したメディアの総叩きを受けて、その対応をするために呼ばれた放送局OBのアシスタント役をさせられました。
そこで知り合った大手広告代理店のテレビ局の方が沖縄基地問題対策を後に任されることになって、30年間に渡って国会の対面にある議員会館に通うことになりました。
その付き合いの中で知ったのは、役立つ人脈に見えても実は烏合の衆ということが多くて、こちらが引き出す金脈ではなくて、逆に引き出すつもりで接近してくる人脈が圧倒的に多いということでした。
そんな人に限って、あの人も知っている、この人も知っていると知人の数ばかりを誇ってくるような状態で、その中から先々につながった人といったら、つまり今も名刺ジャンケンに使えるような人脈としては40人ほどしか残ってはいないのです。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕