「いやが応にも」は、承知する、承知しないに関わらず、何がなんでもという意味合いがあって、政党の代表を引き摺り下ろそうという若手議員、反主流派が押しかけてきたときに、メディアやネット情報でも使われていました。
これは「いやも応もなく」の使われ方の例であって、別の表現では「否応なく」となります。これは、「好むと好まざるとに関わらず」「有無を言わせず」「強制的に」という避けられない状況を表すときに使われる言葉です。
今回の言い間違いは「いやが応にも」と「いやも応もなく」なのかというと、そうではありません。
「いやも応もなく」は“いや”否・嫌=Noも、“応”=Yesもないということで、これは正しい使い方です。そして、「いやが応にも」は誤用です。
誤用されるようになったのは、「いやが上にも」との混同があるからです。ここで使われる“いや”は漢字では“彌”という旧字になります。その意味は、状態がだんだんと甚(はなは)だしくなっていくことを表しています。
これを用いた用語としては“彌栄”(いやさか)があって、これは日本でも古くは乾杯をするときに使われていました。乾杯は“完敗”と同じ読みで、完全に負けることを想像させることから、“彌栄”を使いたいところですが、旧字が使われないということで弥栄と書かれることもあります。
「いやが上にも」は、ただでさえ甚だしい状態なのに、それに加えて(輪をかけて)さらに、という意味になって、嫌々ながら行動を起こすのではなくて、喜んで行動することを意味しています。
政党の代表を降りるということを喜んで受け入れるというのは、今は考えられないところですが、そんな心境で降りたということが、後で理由がわかったということになるのではないか、という期待も“彌栄”の気持ちで待ちたいところです。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕






