日々修行〔番外1〕ずっと学んで書いてきた

日々修行の連載コラムは最後の366回を書き終えました。これで最後と思っていたのですが、連載の途中で何度か「年表がないと関連性がわからない」という声がありました。

自分でも混乱しそうなことがあり、年表は100回目を数えるあたりで作成していましたが、これを載せると、さまざまな関係性がわかりすぎて迷惑をかけるかもしれない人がいることも考えられるので、年表は表に出さないできました。

ただ、あまりに混乱させたままでは、ここまで読んできてくれた方に申し訳ないという気持ちもあって、一部を、年表に従って書いておくことにしました。年表の縦軸にあたるのは西暦でも和暦(昭和〜)でもなくて自分の年齢です。

今年(2025年)は昭和100年で、終戦後80年です。私が生まれたのが昭和30年なので、今年で70歳です。

1000文字ほどの中で全部を書くのは不可能なので、最後の番外のお題である「ずっと学んで書いてきた」に関わることだけになります。先に“一部”と書いたのは、そのような意味があります。

これから先のことは、すでに日々修行の中で書いてきたことだけで、新たなこと(事実や出来事)は出てきません。書き方が少し違っているくらいで、ただまとめただけです。

新潟県の柏崎高校を卒業して、東洋大学の法学部で学ぶために上京したのは18歳のときでしたが、誕生日が4月8日なので、入学のときには19歳になっていました。

18歳のときに地元選出の国会議員(田中角栄)が総理大臣になり、19歳のときに同級生の父親が後援会の方だったことから東京・目白台の私邸に行きました。道案内程度のはずが、いつの間にか私邸に出入りするようになり、錦鯉の世話のアルバイトをすることになりました。

通学ルートの途中に目白駅があったので、定期券で通えていました。田中邸では、さまざまな文書(政治家や後援会の書類など)の手伝いをさせてもらったことが、後々の仕事に役立ちました。

錦鯉の世話を続けながら、20歳のときにはクラシック音楽雑誌のアルバイトを始めました。これは大学の近く(文京区白山)に居宅があった作家の先生のところに知人の紹介で通っていたのですが、先生の息子さんが「音楽の友」の編集長であった縁でのことです。

レコード会社を回って、新譜の情報(レコード盤や説明資料)をもらって、誌面に載る紹介記事などを書いていました。

21歳のときには中野新橋の割烹でアルバイトを始めました。中野新橋は神田川沿いで、新宿西口高層ビル群が遠景に臨めるところで、割烹は私の高校時代の同級生の親戚が経営していました。

相撲部屋の力士が谷町(ひいき筋)に連れてこられるところで、調理や食器洗いの手伝いということになっていましたが、実際には接客がメインでした。話題を途切れさせないために、対話の雑学を集めて、メモにして板さん(板前、料理人)、女将さん(同級生の叔母さん)に渡すのが日課でした。

この3つを続けながら、22歳のときには日本厨房機器工業会の「月刊厨房」の編集のアルバイトを始めました。これは作家の先生のところで知り合った小説雑誌の編集長の副業で、初めて業界の取材やお役所の文書をまとめるという経験をさせてもらいました。

この間にも他の学部(法学部法律学科に所属しながら文学部の東洋哲学講座、社会学部の福祉講座で偽学生?)、図書館での仏教のお勉強、そしてサークル活動(合唱団)ということも続けていて、それこそ就職活動をする暇もないくらいに忙しいまま4年間が過ぎました。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕