日々修行〔番外3〕ずっと学んで書いてきた 3

私の経歴を広く伝えるときには、厨房業界から臨床栄養の世界に進展して、それ以降は食事、運動、保健と健康づくりに関わる仕事を進めてきた、ということにしています。

前回の最後に厨房・料理の世界から臨床栄養の世界に移る31歳までの途中に、同時にスポーツ雑誌の編集、書籍の執筆をしてきたと書きました。

スポーツ雑誌の編集に関わったのは「月刊バレーボール」が最初で、23歳のときでした。大学を卒業して日本厨房機器工業会の機関誌「月刊厨房」の編集を業務委託で始めてから、まだ半年後のことでした。

その当時は空前のバレーボールブームで、人手が足りないということで、日本バレーボール協会の役員の依頼で、初めは国際大会が日本で開催されたときの特集号の編集だけの予定でした。

ところが、本誌のほうの編集も手伝うようになり、24歳のときには同じ会社が発行する「月刊バスケットボール」、25歳のときには「月刊テニスクラシック」の編集もプラスで手伝いました。異なる雑誌といっても同じ部屋の中のことで、3誌の定期刊行物の編集を並行してこなすのは、流石に大変でした。

この掛け持ちを止めることになったのは、26歳になったときに、「月刊バレーボール」の編集部員から書籍の編集の手伝いの話があったからです。その方はPHP研究所の出版部の出身で、新たな書籍のテープ起こし(講演のテープを聞きながら原稿にする)ということで、これまでの仕事の延長くらいの気持ちで気楽に受けました。

渡されたカセットテープは、松下政経塾の塾長(松下幸之助さん)の講話でした。話の内容を原稿にすればよいだけと聞いていたのですが、手書きした400字詰め原稿用紙300枚分を渡しに行ったら、依頼したのは書籍にする原稿だったと言われました。

そのようなことは聞いていなかったのですが、いつまでに書き直せるかと聞かれたときに、もう一つの原稿を出しました。それが採用されたのですが、ただのテープ起こしだけでは面白くないという気持ちがあってのことです。

1回きりの仕事のつもりで、以前に塾長の書籍を個人的に読んでいたこともあって、執筆文と講話の違いはあるものの、こんな書籍なら読んでみたいというつもりで、趣味の感覚で余計に300枚分を書いていました。

初版は7000部だったのですが、発行された日のうちに増刷が決まり、その売れ行きの良さからシリーズで発行することも決まりました。

そのシリーズも担当することになり、これをきっかけに書籍を忙しい著者に代わって書くゴーストライターの仕事が始まりました。初めこそ手書きでしたが、ワープロからパソコンへと移っていって、40歳のときまで15年間でPHP研究所だけで150冊を書かせてもらいました。

編集の手が足りないときには、入稿作業のレイアウトも文字校正も手伝っていました。

31歳からは病院栄養管理HDS研究所の主任研究員となって、複数の団体の機関誌を担当することになったので、ゴーストライターの仕事と重なっていた期間は10年近くになります。

といっても、ゴーストライターは月に1冊くらいのペースで、初めの頃の週に1冊に比べたら楽だと感じるほど、とにかく書き続けていました。

私が40歳になった1995年は、Windows95の時代となり、ネット時代は出版がデジタルになることが想像されていたので、これを最後にした専門分野へと移っていきました。

それ以降のことは、「日々修行」の中で書いているので、略そうと思うのですが、要望があれば書いてみようかとも思っています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕