取り引きの基幹となるのは、いつの時代にも金銭でしたが、その常識をひっくり返そうと新たな基幹として「時間を使うこと」を構想したのは1993年のことで、1995年のスタートで準備を進めていました。
その中心であったのは、日本社会事業大学の学長(1991〜1995年)を務めた社会福祉学者の三浦文夫先生です。日本社会福祉学会や地域社会学会の会長も務められ、国の新ゴールドプラン(新・高齢者保健福祉推進10か年戦略)の座長も務めました。
三浦先生は提唱した「社会福祉経営論」「ニード論」は、現在の社会福祉の根幹ともされ、社会福祉士国家試験の設問にも取り上げられています。
三浦先生は、私の叔父であり、同時期に東京・原宿で活動しました(当時の日本社会事業大学は原宿にあり、三浦先生も私も原宿の住人)。
東京都世田谷区の新たな福祉サービスの検討委員会(委員長は三浦先生)には、私も栄養・健康づくりの専門家の一員として参加していました。
福祉サービスの充実のための施策の一つが「ボランティア貯金」(時間銀行)でした。
今後の社会構造の変化に対応する仕組みとするためには、過去の方式や海外の方式を超える新たな発想によるサービスの構築を考え、1995年から始まる本格的なインターネット時代に対応する運営・管理を検討しました。
三浦先生のニード論では福祉サービスは貨幣的ニード(金銭給付)と非貨幣的ニード(現物給付)に分けられ、非貨幣的ニードは必要とする在宅福祉サービスを提供することを目的としています。しかし、現物給付は金銭給付とは違い、数量的基準で図ることが困難で、ニード(必要性)の充足を明確化することも難しいとされていました。
非貨幣的ニードの充足には、何よりもサービスを提供する人の存在が大切であり、これらの課題を解決するために検討を重ねたのが、ボランティア貯金を発展させたシステムが時間銀行でした。
ところが、1995年1月17日の早朝に阪神・淡路大震災が発生して、環境は急変しました。社会の関心が災害支援に向き、行政や福祉業界、産業界だけでなく、時間を基幹とした福祉サービスへの展開は二の次、三の次となる状況となりました。
1995年はWindows95の登場によって情報発信が一変することになって各業界が通信環境への対応に忙しく、社会不安(一連のオウム事件など)も重なって、大変革に進みにくい状況がありました。
三浦先生は1995年に学長を退任することになり(定年退職は1997年)、私は健康科学情報センターを設立して、それぞれ新たな歩みをすることになりました。
機会があれば、すぐにでも時間基金の活動を再開させようと願っていたものの、小林は厚生労働省や内閣府などの仕事、厚生労働省に関わる公益団体の設立や運営、各団体の広報(食品や健康関連)、資格認定講習、エネルギー代謝科学研究などが重なり、再開からは遠ざかっていました。
そして、2000年から公的介護保険制度が始まり、これまでの発想での時間を基幹とした福祉サービスは困難であると感じるようになっていました。
これを30年が経った今、再開させるために動き始めています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕