「兵隊の靴」という言葉を金言の一つとして示してくれた米山正夫先生についての情報は、今の時代は簡単に検索できるので、関わりがあることだけを書いておくことにします。
作曲家として1000曲以上を世に送り出して、その一部は作詞も手がけています。
米山先生は1912年に東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町穏田で生まれました。今の住所でいえば東京都渋谷区神宮前ですが、いわゆる原宿の中心部です。
穏田(おんでん)というと葛飾北斎の冨富嶽三十六景の一図の「隠田の水車」に描かれた場所で、青山の台地からの水が穏田川(現在の渋谷川で今は暗渠)に流れる込む手前にありました。
私が米山先生に出会ったのは1981年のことで、その時は私は26歳でした。
そして、1985年に私が30歳のときに逝去されたので、短い間の付き合いだったのですが、頻繁に会っていました。
というのは、私は1982年から縁があって原宿に住むことになり、私が住んでいたところと米山先生の生家が極めて近かったことから、地域の昔話から音楽業界についても相当に教えてもらいました。
これが後に私が音楽業界と関わることになったきっかけではないものの、業界に足を突っ込むようになってからは、役立つ話ばかりを得ることができました。
米山先生は父親のすすめで音楽の世界に入ったのですが、その父親の米山正さんは東京蓄音機を設立したレコード業界の先駆けともいえる方です。
米山先生が亡くなり、その葬儀のときに、最も印象に残ったのは美空ひばりが弔辞を読んだことでした。それは「リンゴ追分」の作曲家だった関係でした。また、水前寺清子が参列していたのは「三百六十五歩のマーチ」の作曲家だったからです。
「兵隊の靴」ではないのですが、このときの「三百六十五歩のマーチ」の“休まないで歩け”が後のウォーキングに結びついたのは、20年後のことでした。
〔セカンドステージ連盟 小林正人〕






