金言の真理83「三献の茶」3

「三献の茶」については、その由来も知らずに子どものときに寺でお茶の差し上げ方の三段活用をしていました。その寺というのは母親の実家で、寺と茶道は付きもので、祖母は茶道の心得があって家元制度の免状が飾ってあったのも覚えています。

「三献の茶」について初回(金言の真理81)よりも少しだけ詳しく書くと、以下のようになります。

一杯目は、喉が渇いている相手を思い、喉の渇きを鎮めさせるために、たっぷりのぬるめの茶を大きめの茶碗で差し出します。

二杯目は、一杯目を飲み干した相手に、次に少し熱めの茶を、やや小さめの茶碗で差し出します。

三杯目は、相手の気持ちが落ち着いた頃を見計らい、熱く濃い茶を、高価な小振りの茶碗に入れて差し出し、ゆっくりと味わってもらいます。

「三献の茶」には及ばないものの、その要領は習うともなく、子どものときに親元を離れて3歳から3年間、預けられていた母親の実家の寺院で身につけていました。

後になって祖母は、「小坊主さんも、お茶の出し方で出世した」とか「お茶は相手のことを思って差し上げる」という話を伝えたと言っていましたが、幼い記憶では茶道の作用のことなのかと感じていました。

あまりにも濃茶が苦かったので、普通のお茶(煎茶)は甘くて、美味しいと感じるくらいでした。

その飲みやすいお茶は、3つの茶筒に入っていて、見た目は変わらないのですが(来客にはわからないようにしていた)、値段が違っていました。人に差をつけてはいけないのが仏教であるはずなのに、お客さんによって使う茶筒と中身が違っていました。

門前の小僧ではないのですが、4歳の時には間違わずに茶筒を選び、急須から注げるようになっていました。高いお茶ほど、ぬるめのお湯で時間をかけて淹れるということを覚え、温度で味わいも香りも変わってくることを知りました。

これを「三献の茶」の三段活用と同じに論じてよいのかは別に置いておくとして、私にとっての「三献の茶」は出世につながることはなかったかと思いますが、お茶を出す相手の気持ちは察することはできるようにはなったと思っています。
〔セカンドステージ連盟 小林正人〕