「信じる者はすくわれる」は、“救われる”ではなくて“掬われる”でないと意味合いが違っているのではないかということを前回、“確信犯”のお題の中で書かせてもらいました。
掬われるは、「足元をすくわれる」といった慣用句として使われていて、隙や油断につけ込まれて、不意に失敗をさせられたり、出し抜かれたりする意味となっています。
「信じる者はすくわれる」は、その程度では済まない経験をした場合に使う慣用句だと伝えてきましたが、古希を過ぎてから自らが体験するようになるとは思いもしませんでした。
社会的常識の範囲であれば、考えが変わるのは当然にあることで、その理由を聞いてみて生活環境や経済環境などの変化が原因であれば、それを指摘しても仕方がないことになります。
ところが、特に変化もないのに、世間様から後ろ指をさされるようなことを平気でしている人も少なくありません。なぜ平気なのかというと、当たり前のことをしているだけで悪いことをしているわけではない、という考えが根本的にあるからです。
このように本人は別に悪いことをしていない、正しいことと確認していて、まるで犯罪行為かのような悪影響を与えることは“確信犯”と呼ばれることを前回書きました。
その周囲から見たら「犯罪行為ではないか」と思われるようなことも、“自分自身に言い訳ができれば問題がない”という感覚でスルーさせてしまう人も少なくありません。
極端な例になると、「何が正しいか」「誰が正しいか」ではなくて、「誰を信じるのか」と論点をズラしてくる人がいます。
国のトップレベルにいる人が「私は報道よりも秘書を信じる」という発言をするようなもので、「信じる者は救われる」と言わんばかりのことをしがちですが、実際には「信じる者は足元を掬われる」というか、“言い訳をする者は足元を掬われる”という状態が待っています。
「私が信じている人が認めないから」と前言を翻す(ひるがえす)ような人が多くなってきた時代だけに、まだまだ「信じる者はすくわれる」と言い続けなければならないようです。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕






