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厚生労働省から、「健康づくりのための睡眠ガイド2023」が発表されました。
以下に、「健康づくりのための睡眠ガイド2023」の成人版の「睡眠の不調、睡眠休養感の低下をもたらす睡眠障害や更年期障害」を紹介します。

〔睡眠の不調、睡眠休養感の低下をもたらす睡眠障害や更年期障害〕
睡眠の不調(入眠困難や中途覚醒等)や睡眠休養感の低下が長く続く場合、背後に睡眠障害が潜んでいることがあります。不眠症はストレスを契機に発症することが多く、睡眠の不足とともに睡眠休養感の低下をもたらすことが報告されています。

閉塞性睡眠時無呼吸や周期性四肢運動障害は、日中の眠気・居眠りや睡眠休養感の低下以外の自覚症状に乏しいこともあります。これらの疾患は、いずれも50歳代以降に有病率が増加するため、注意が必要です。

また、労働世代の後半には更年期を迎えるため、さまざまな不調が生じやすくなります。更年期女性の4〜6割が睡眠の悩みを抱えており、仕事にも影響することが報告されています。

〔睡眠時間を確保する働き〕
労働者が適正な睡眠時間を確保する上で重要なのは、労働時間との関係です。勤務時間が長くなるほど、睡眠時間は短くなる傾向があるため、疲労が蓄積します。

労働時間と睡眠時間は関連が強く、米国民を対象とした1日の生活時間の大規模調査では、睡眠時間の短縮と最も強く関連していたのは勤務時間の長さで、次いで通勤時間を含む移動時間の長さでした。

我が国の労働時間と睡眠時間の関連についての調査研究でも、1日当たりの労働時間が7時間以上9時間未満の人を基準とした場合、男性の場合は睡眠時間が6時間未満になるリスクは、労働時間が9時間以上の人は2.76倍、11時間以上の人は8.62倍に著しく増加することが報告されています。

女性の場合も、労働時間が9時間以上の人は2.71倍、11時間以上の人は5.59倍に増加することが報告されています。

さらに時間外労働が1日5時間を超えると睡眠時間は著名に短くなるとの報告もあり、睡眠時間の確保のためには、長時間労働の是正等の労働時間の管理も重要です。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

「和菓子の日」日本和菓子協会が848年6月16日に天皇が16個の菓子や餅を神前に供えて厄除けと健康招福を祈ったとされる故事にちなんで制定。

「麦とろの日」はくばく(山梨県中央市)が麦(6)とろ(16)の語呂合わせで制定。

「手羽トロの日」マザーフーズ(大阪府大阪市)が6が手羽元の形に似ていることとトロ(16)の語呂合わせで制定。

「堂島ロールの日」堂島ロールを販売するモンシェール(大阪府大阪市)が6が一巻きロールの形をあらわし、いいロール(16)の語呂合わせで制定。

「父の日はうなぎの日」うなぎ屋たむろ(岐阜県各務原市)が父の日にうなぎの蒲焼を贈る人が多いことから制定。

「さくらんぼの日」山形県寒河江市が6月の第3日曜日に制定。

毎月16日:「十六茶の日」(アサヒ飲料)、「トロの日」(カッパ・クリエイト)

病気を治すことだけでなく、病気にならないようにすることも医師に期待される時代となっています。これまで医療における医師の役割は、診断と治療が中心でした。病気になってから治すことに加えて、病気にならない方法を指導してくれる専門家も医師であるとの認識がされるようになってきました。

このことは火事にたとえられることがあり、火事が発生してから消防署員が駆けつけて消化に取りかかるだけでなく、火事が起こらないようにする防火意識の向上や“火の用心”も消防の重要な役割となっています。

病気にならないように先回りして取り組む“健康・火の用心”は、まさに医師の役割で、そのための知識も豊富に得ている存在が医師であると期待されているところです。医師国家試験に合格するためには、身体や健康に関わるすべての知識があるように、これに期待されるところです。

予防に関わる三大要素といえば食事、運動、休養と相場が決まっています。この三大要素は、厚生労働省から(実際には厚生省と労働省が統合される2001年の前の厚生省から)健康づくりの基本として発表されています。

今は、休養ではなく“睡眠”が三大要素の一角を占めるようになり、「健康づくりのための睡眠ガイド2023」が発表されています。厚生労働省からは他に「健康づくりのための身体活動・運動ガイド2023」、「日本人の食事摂取基準(2020年版)」が発表されていて、“掛け声”ではなく具体的な方法が示されるようになっています。

これらのガイドなどを理解して、活用すれば健康の維持・増進ができるといっても、これは個人向けのものではなくて、健康づくりを指導する立場の人に向けてのものです。個人で実践するとなると、理解力には個人差があり、理解できたとしても生活条件は異なっているので、的確なアドバイスをしてくれる立場の人が必要です。

それを医師に頼ってよいのか、それとも別の立場の専門家に求めるべきなのか、そのことを知るのが、自分で自分の健康を考えて実践するセルフメディケーション(self medication)、略してセルメ(selme)で、この連続コラムのテーマの「SELME」の出発点になるところです。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

2001年は大きな転換点でした。

世界的には2001年というと9月11日のアメリカの同時多発テロ事件があまりに有名で、各年の出来事をまとめた年表では他のことが霞んでしまうような出来事でした。これを機会に人生の別の扉が開いたと話す人とも数多く出会いました。

個人的には別の意味で扉が開いた年で、2001年に厚生省と労働省が統合されて厚生労働省が発足しました。厚生省時代に付き合ってきたお役人が初代の厚生労働事務次官となったこともあって、これまで以上に霞が関に出向くことが多くなり、霞が関まで歩いていけるところに住むようになった年でもあります。

2001年には、翌年の画期的な健康分野の変革が水面化で進んでいて、これにも関わることができました。それは厚生労働省による「保健機能食品等に関わるアドバイザリースタッフの養成に関する基本的考え方について」の通知で、サプリメントアドバイザーなどの名称で知られる保健機能食品(サプリメント)の制度づくりでした。

この通知の委員会に関わることになったのは、初めにサプリメントアドバイザーの名称でアドバイザリースタッフの養成を始めた日本臨床栄養協会の当時の副会長が運営する臨床栄養に研究所で、当時は主任研究員を務めていたからです。

日本臨床栄養協会は、当時は健康食品業界に詳しい人が少なかったことから、業界とのつなぎや研究資料の収集をしていました。

そんなときに知ったのは、医薬品成分であったコエンザイムQ10、L–カルニチン、α–リポ酸が食品の成分としても使用することが許可されるということでした。それぞれの研究成果をもって審議が進められていて、コエンザイムQ10が2001年に、L–カルニチンは2002年に、α–リポ酸は2004年に許可をされています。

L–カルニチン研究の第一人者の王堂哲先生は、日本メディカルダイエット支援機構の副理事長を務めています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

「生姜の日」永谷園が奈良時代から神様に生姜の感謝を捧げるのが6月15日であったことから制定。

「オウムとインコの日」オウムやインコと愛情を持って接することをすすめるTSUBASA(埼玉県新座市)が供養と鳥の幸せを願う日としてオウム(06)インコ(15)の語呂合わせで制定。

「ポスチャーウォーキングの日」POSTURE WALKING協会がポスチャースタイリストのKIMIKOがTHE POSTUREを設立した2006年6月15日にちなんで制定。

毎月15日:「お菓子の日」(全国菓子工業組合連合会)、「惣菜の日」(日本惣菜協会)

「“粗食のすすめ”というのは聞いたことがあるけれど、“素食のすすめ”ってなんだ?」「粗食のすすめの間違いではないのか!という声は、この連続コラムを考えたときからありました。

『粗食のすすめ』は医療機関出身の管理栄養士の著書のタイトルでもあり、飽食の時代へのアンチテーゼ(反対命題)の一つとしてメディアにも登場していました。

初版の発行は1995年のことで、私は当時は病院栄養管理研究所に所属しながら、臨床栄養の先生方も迎えて健康科学情報センターを立ち上げたタイミングで、日本臨床栄養協会の機関誌の編集にも関わっていました。

その編集の中で“粗食のすすめ”についても取り上げ、統合医療の病院に所属していた著者から直接、話を聞くことができました。

ご飯は未精製のものを食べ、肉類は少なくするという戦前の粗食の時代に戻すことで、それが健康づくりの基本になるということで、論拠として掲げられていたのは生活習慣病の少なさ、生活習慣病で亡くなる人の少なさでした。

あくまで編集の立場で、発言に疑問や異論を投げかけることはなかったものの、違和感を抱えての取材終了、記事執筆でした。

戦前に生活習慣病は少なかったのは確かで、高血圧、糖尿病、脂質異常症(当時は高脂血症と呼ばれていた)で亡くなる人も極めて少ない状況でした。それが食事の洋風化が大きく進むことで、心疾患(心臓病)、脳血管疾患で亡くなる人が急激に増えました。

だから、粗食に戻せばよいというのは極論で、その当時の日本人は長生きではなかったので、生活習慣病に長く苦しんで亡くなるということも少なかったのです。

終戦後の初めての調査(1947年/昭和22年)では、日本人の平均寿命は男性が50.06歳、女性が53.96歳で、男性は初めて50歳を超えました。戦前ということでは男性は50歳に達していなかったのです。

その当時、アメリカの平均寿命は60歳、北欧では70歳に達していました。現在でいう先進国の中では日本人の平均寿命は最下位に位置していて、当時の長寿国とは20年もの開きがありました。

そこから一気に平均寿命は延びて、世界1位まで上り詰めました。何が影響したのかというと、栄養不足から血管が弱かったのが、たんぱく質の摂取によって血管が丈夫になり、脂肪が補われるようになって免疫も高まったことがあげられます。

日本人の死亡原因は、1947年(昭和22年)には第1位は結核で、第2位は肺炎・気管支炎でした。

日本人が平均寿命を延ばしながら、生活習慣病(当時は成人病と呼ばれていた)が多くはなかったのは昭和30年代後半です。まだ伝統的な食事が残っていながら、不足している栄養素を摂っていた時代であり、戻るとしたら、この時代ではないかという疑問がありました。

ただ、あまりに精製されたもの、加工されたものが増えてきただけに、食品そのものの栄養素(ビタミン、ミネラル、抗酸化物質)を摂ることは重要で、素材、素朴といったことから“素食”というネーミングを思いつきました。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

企業などで働く人の健康づくりサポーターとして、THP運動の担い手である産業栄養指導者、ヘルスケア・トレーナー、産業保健指導者、心理相談員が存在することから、これらの方々の指導を受けることが期待されています。

しかし、中小企業や零細企業で働く人、個人事業主には、その指導が及ばないのが実態です。

そこで、企業や団体の中に、健康づくりの指導者となる人材、外部の指導者(管理栄養士、健康運動指導士など)との橋渡し役となる人材を育成して、大企業などと同等の健康づくりが実施できる体制が求められています。

2025年4月からの定年退職年齢の65歳の義務化、70歳まで働くことを望む人の希望をかなえることが努力義務となることから、65歳以降の従事者は、これまでの経験や実績、人的関係を活かしたいと望んでいる人が多くなっています。

70歳までの働く場としては、企業内、他社、企業などの手掛ける社会貢献事業などがあり、これに参加する中で出身の企業・団体との健康活動に更年したいとの意欲も高まっています。

すでに多くの企業では、さまざまな健康づくりを実施していますが、その内容には差があり、これを充実させる活動に関わることを目指しています。

これに対応するために、セカンドステージ連盟では、健活企業などで健康づくりの指導者となる人材、外部の指導者との橋渡し役となる人材を育成して、出身企業や関連企業などに出向いて、健康づくりを推進する活動(健康管理指導者)に取り組んでいきます。

企業・団体の出身者の健康づくりの活動は、現役の従業員の見本となるべきものであり、その活動の充実は従業員のモチベーション向上にもつながります。

企業・団体内でまだ実践されていない健康づくりに関わるサービスを、社会貢献事業に参加する方々が担うことで、企業・団体のより高い健康度の向上に寄与していきます。

これと同時に、OBの生きがいづくり支援も重要な活動となります。70歳までの従事だけでなく、これを超えても社会貢献事業に継続して取り組みたいと望む人は多く、セカンドステージ連盟は年齢に関係なく活躍の場が提供できる活動も実施していきます。

その活動として、①社会参加(イベント、健康スポーツ、交流)、2高齢者の資格取得、③相談事業(専門家としてのアドバイス)などが考えられます。

健康づくりに積極的に取り組む企業・団体は、健活企業に限らず、企業・団体内だけでなく、その家族や関係者、地域の健康を通じた貢献活動の意識が高く、地域との連携は出身の企業・団体にとっても重要な活動イベントとなります。

この活動は、社会貢献事業の参加者だけでなく、健康づくりに積極的に取り組む企業・団体の現役従事者にとっても重要なことであり、将来の自らの姿を示すモデルともすることができます。
〔セカンドステージ連盟 小林正人〕

私の考えや行動は、居場所が定まらない転々としてきたことが影響していて、仕事のこだわりがなく、常に新たな関わりを持って進めてしようとするところがあります。その新たなことを説明しているときに、「次はどこに行くのか」と聞かれることがあります。

“どこに”というのは、話の後に行く場所を聞かれているのではなくて、これから何をするのか、そのために居場所を変えるつもりなのか、という意味で聞かれることがほとんどです。たまには、その日の予定を聞かれることもあるのですが、岡山に居続けるのか他のところに移住するのか、新たな仕事を始めるために移動するのか、という意味での質問です。

これからの自分の行動を考えるためには、これまでを振り返ってみることもよいかと思い、これまで住んだところを思い出して書いてみました。(地域名は当時)

1 誕生地の新潟県出雲崎町(母の実家の寺)〜6か月(以下、新潟県内)
2 父の勤務地(警察の駐在所)の松之山村(松之山温泉)〜2歳
3 松之山村東川(駐在所)〜3歳
4 出雲崎町(母の実家の寺)〜5歳
5 牧村(駐在所)〜8歳
6 見附市(父の勤務地は警察署)〜9歳
7 小須戸町(派出所)〜10歳
8 小須戸町(派出所の移動)〜13歳
9 糸魚川市(父の勤務地は警察署)〜15歳
10 柏崎市(叔父の家)〜16歳
11 柏崎市(親戚の家)〜17歳
12 柏崎市(アパートから高校通学)〜18歳
13 東京都中野区(大学で上京、アパート)〜19歳(以下、東京都内)
14 中野区(高校の同級生の親戚の店の寮)〜20歳
15 中野区(中野坂上のアパート)〜21歳
16 豊島区(東長崎のアパート)〜22歳
17 武蔵野市(吉祥寺の団地)〜26歳
18 渋谷区(原宿のマンション)〜29歳
19 渋谷区(原宿の一軒家)〜47歳
20 港区(神谷町のマンション)〜51歳
21 港区(赤坂のマンション)〜61歳
22 岡山県岡山市(東区瀬戸町万富)〜64歳
23 岡山市(東区瀬戸町光明谷)〜現在

これからは岡山の健康づくりに注力するので、移動しても県内だけのつもりです。

「どこから来て、どこに行くのか」というのは、ポール・ゴーギャンの『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか』(1897〜1898年作成)から拝借した言葉です。ゴーギャンが太平洋中心のタヒチで描いた代表作のタイトルですが、心に響く言葉でもあることから多くの楽曲の歌詞に一部が使われています。その数は70作品を超えています。

有名なところでは、松任谷由実の『経る時』の「どこから来て、どこへ行くの」、石川さゆりの『歌、この不思議なもの』の「どこから来て、どこへ行くのか」、浜田省吾の『境界線上のアリア』の「どこから来て、どこへ行くのか」、吉川晃司の『雨のTraveller』の「どこから来て、どこへ行くのか」、加藤登紀子の『川は流れる』の「どこから来て、どこへ行くのか」、レミオロメンの『Tomorrow』 の「どこから来て、どこへ行く」など、その数は70作品を超えています。

書籍では『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(宮台真司著)には、表紙にゴーギャンの『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか』が使われています。

ゴーギャンの絵画のタイトルは、カトリックの公教要理の中の三つの問いからヒントを得たもので、①人類はどこから来たのか、②人類はどこに行こうとしているのか、③どのように人類は進歩していくのか、の三つが問われています。カトリックの公教要理は問答形式で書かれたキリスト教信仰の教義書です。

ゴーギャンは娘を亡くし、家からの立ち退き、多額の借金、健康状態の悪化などが続き、失意のもとに訪れたタヒチで、ゴールのない人生について苦闘する中で描き上げました。

その苦闘に比べれば、問題ならないほどの人生しか過ごしてこなかった身の私が語るのも烏滸(おこ)がましいことですが、ゴーギャンの絵画のタイトルからは「行くところまで行こう」という覚悟を感じています。

ゴーギャンの絵画のテーマと、楽曲や書籍に使われる言葉との最大の違いは「我々は何者か」という部分で、この言葉にこそ考えるべきところがあります。これまでに日本人が築き上げてきた価値観が足下から揺らいでいる今、自分は何者か、つまり自分の存在意義と価値を確認することが重要で、そのために過去を振り返り、社会を再構築していくために力を注いでいこうという湧き上がる意志を示しています。

これを自分のこととして受け止め、常に「自分は何者か!?」と問うために、『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか』を唱え続けています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

小学生になったときの父の勤務先は山奥の村で、都市部とつなぐバスはあっても1日に5本程度で、1時間半ほどはかかる距離でした。村で菓子を売っているのは1店舗だけで、テレビコマーシャルで見たチョコレートやキャラメルは、バスで商店街に出たときに初めて現物を見るというような地域でした。

そんなところで育ったのに、クリスマスだけはホールケーキを食べることができました。同級生の家でもホールケーキを食べている家がなかったわけではないのですが、話を聞くとイブに半分、クリスマス当日の半分という感じでした。ところが、我が家はイブに全部を食べて、当日には別のアイスクリームケーキを食べていました。

イブのケーキは父の実家の米屋と母の実家の寺からの支援で買ったもの、アイスクリームケーキは父の知人の会社からのプレゼントでした。それは転校先(父の転勤先)でも小学生の間は続きました。

中学生以降は、他の家と同じようにホールケーキを2日に分けて食べるようになっていたので、クリスマスといえばケーキはつきものという感覚でした。

高校は父の実家の近くの学校に通っていて、同級生に菓子屋の娘がいました。たまたまクリスマスに親元に帰れず、母の実家で過ごすことになったのですが、クリスマス当日の夕方にはケーキの売れ残りがあって、それを安く買わせてもらって、バスで1時間ほどの母の実家に行きました。

クリスマスケーキはイブに食べていて、連続でもよいかという思いだったのですが、ケーキを持って入ると、祖母と叔母が驚きの顔で迎えてくれて、「クリスマスに初めてケーキが食べられる」と言われたときには、私のほうが驚いてしまいました。

小学生のときからクリスマスにケーキを食べることができたのは母の実家の支援があったからで、寺でもクリスマスケーキを食べているものと勝手に思い込んでいました。
仏教だからキリスト教の祝い事のケーキを食べて悪いことはないと思っていたのですが、厳格な住職の祖父の教えに従って、クリスマスケーキは食べてはこなかったということでした。

そのときには祖父は亡くなっていたのですが、私が寺で過ごした3年間は、近所の子どもがケーキ(ショートケーキらしい)を食べているのに可哀相ということで、イブと当日は和菓子が食べ放題の日だったということを聞きました。

そのことに関しては、まったく思えていなくて、クリスマスにはケーキということも知らず、そういえば和菓子の食べ放題の日があったということを思い出したくらいです。

そのときをきっかけにして、12月24日にはケーキを食べるようになったと後になって祖母から聞きました。ただメリークリスマスの言葉もなく、いただきますと合掌していただく仏教式で、クリスマスを祝ってのことではないのは貫いていたとのことでした。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

寺が災害から復興するための作業場になったということを前回書きましたが、さらに親の作業を手伝う子どもたちの集いの場にもなっていました。

漁師町であり、男手が漁に出ているときは女手が家の一切を担っているような地域であったので、寺で紙風船を作るために女性陣が集まるということは子どもも一緒にくるのは当たり前で、赤ちゃんから入学前の子どもまで一緒にいるのは当然のことでした。

災害があったのは夏休みの期間だったので、上は高校生まで出入りしていました。年上の者が下の者の世話をするのも家庭内の延長というよりも、地域で子どもの世話をするのも当たり前の感覚で、地域のコミュニティの縮小版が寺の中に詰め込まれている感じでした。

だから、おやつも共有されていて、ここでも分け隔てなく、我慢することなく皆で食べるのは普通のことでした。

同じ場所で同じ時間を過ごし、宿題だけでなく生活のマナーまで知りたいことは教えてもらえて、多少のギクシャクはあったとしても同じものを食べることで気持ちが一緒になるという、寺子屋の原点のような状態でした。そこで覚えたことは、寺が集会場や作業場の役割を終えたあとも続いていました。

寺に行けばよいことがあるということを子どもたちが覚えたのは、やはり甘いものの存在でした。昭和30年代は高度成長期が始まっていたとはいえ、まだまだ貧しいところがあり、町でお菓子を売っているのは2店舗だけで、そこ以外でお菓子がたくさんあるのは寺という感じでした。

葬式や寺の儀式のときだけでなく、饅頭もあれば干菓子もある、おやつといえば“3時”だけでなく10時も当たり前で、お茶が出るときには“お茶菓子”がつくのは当たり前でした。

そういう環境だったので、寺に集まっていた子どもたちだけでなく、その友達も何かと理由をつけては、やってきていました。

サザエが採れたので持ってくる、檀家の用事を子どもが引き受けてやってくる、回覧板を持ってくる、郵便配達の代わりに持ってくるということから、寺で寂しく過ごしている私と遊んであげようという理由をつけて、とにかく次から次へと誰から来るという状態でした。

何か用事があってきた子どもには、お茶菓子が出る、帰りには甘いものを持たせるというのが常態化していたので、寺を離れて父の勤務地に戻ったときに、他の家を訪ねても甘いものが出るのは当たり前ではないことに初めて気づきました。

父の勤務地は農村地だったので、訪ねた先でもらって食べたのは、味噌をつけたキュウリということもあり、売るわけにはいかないものを子どもにあげるというのは、寺も一緒だということも感じた機会でした。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕