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文部科学省の「食に関する指導の手引」では教科ごとの食に関する指導を各論として掲載しています。ここでは家庭、技術・家庭の中学校の食に関連する内容を前回に続いて紹介します。
(イ)当該教科で指導することが考えられる例
小学校家庭科で学習した「B衣食住の生活」の(1)「食事の役割」、(2)「調理の基礎」、(3)「栄養を考えた食事」に関する基礎的・基本的な知識および技能などを踏まえ、(1)、(2)、(3)の項目を相互に関連させて適切な題材を設定し、総合的に展開できるよう配慮します。
また、食事の役割を取り上げる際には、「A家族・家庭生活」の(1)の家族・家庭の基本的な機能と関連させ、健康・快適・安全・生活文化の継承などの視点から考えることが大切であることに気づくようにします。
さらに、理科、保健体育科などの他教科などの学習と関連を図るために、指導の時間などにも配慮します。食育については、小学校における学習を踏まえ、他教科などとの連携や学校給食との関連、高等学校家庭科との系統性を図るとともに、基礎的・基本的な知識および技能の確実な定着を図るようにします。
*生活の中で食事が果たす役割については、小学校の学習を踏まえ、食事を共にすることが人間関係を深めたり、偏食を改善し、栄養のバランスのよい食事につながったりすること、行事食や郷土料理など、食事が文化を伝える役割もあることを食生活調べや話し合いなどの活動を通して、具体邸に理解できるようにします。なお、食生活調べなど生徒の家庭での食事を取り上げる場合には、生徒のプライバシーに十分配慮します。

出すぎた杭は打たれないのではなく、むしろ出すぎていることから周囲から妬(ねた)まれるようなことになるのは、単独で行動している人や団体・企業に見られることです。単独の行動は、自らは強いと思っていても、コロナ禍に限らず予想外のことが起こったり、これまでの客だった人の意識が大きく変わるような出来事があると、実は弱かったということに気づかされることになります。
得手不得手は、どんな人にもあって、平穏無事の時代には得手が強ければ、不得手はさほど気にしなくても済んだものです。ところが、コロナ禍が長引く中で、不得手なことがあると、そこが弱点となり、敵に“蟻の一穴”を攻められると、あっけなく強固な城が崩れてしまうのと同じように、コロナ後に戦おうとしても戦えない状態にもなりかねません。
戦うというのは同じ地域の店や会社と地域の客を取り合うレベルの話ではなくて、敵は周辺地域にも広く国内には、そして海外にもいます。不得手を克服することは面白いことではなくて、手間も金もかかります。ましてや、沈没の危機を感じているような厳しいときに、不得手の克服をして、次の戦いに備えるには強い意志と覚悟が必要です。
不得手を自分だけで克服することができなければ、それは外から持ってくればよいというのは歴史に学ぶことができるものの、ただ欠けている部分を補うだけ、そのときに間に合えばよいということでは、いざというときに力を発揮してくれるとは限りません。ところが、同じ目標、同じ意識を持って、それぞれが得意とすることを持ち合い、寄り合い、組み合わせていけば、危機を乗り越えられる強い力とすることができます。
ただ、ジョイントベンチャーのように力を合わせて、収益が得られたら分配するということではなくて、一緒の目的を掲げた団体を立ち上げ、それぞれのメンバーが集って活動することが重要で、そのことが明らかになったのは、ある意味ではコロナ禍の“おかげ”と言うことができます。

日本人は今でこそ世界に誇る長寿国となっていますが、日本人の平均寿命の推移を見ると、男女ともに55歳を超えたのは第二次世界大戦の終戦直後の1947年(昭和22年)のことで、男性が50.06歳、女性が53.96歳となりました。3年後の1950年(昭和25年)には、女性の平均寿命が60歳を超え、それに続いて1955年(昭和30年)には男性も60歳を超え、それ以降は急速に平均寿命が延びました。
1977年(昭和52年)には男性の平均寿命が77.69歳と世界第1位となり、続いて1984年(昭和59年)には女性が80.18歳と第1位となりました。2018年(平成29年)の平均寿命は男性が81.09歳、女性が87.26歳(平成29年簡易生命表)と、男女ともに過去最高を更新したものの、世界の順位では男女ともに第2位と延びは緩やかになっています。この平均寿命の延伸によって、一世代(30年)分の住民が出現することとなりました。この一世代(30年)分の住民は高齢化率を引き上げ、世界に類を見ない超高齢社会に突入しています。
健康寿命は延伸しているものの、平均寿命の延伸と同様の傾向で推移していて、平均寿命と健康寿命の差(延命寿命)は男性が8.84年、女性が12.35年と現在は差が縮小傾向にあります(2016年調査)。
健康寿命の延伸は、個人や家族だけでなく、地域、自治体にとっても、そして国にとっても大命題となっています。地域で生活する人が健康の維持・増進を幸せと感じることができるようにするためには、身体的な健康度の向上とともに、認知機能の維持・向上も重要となります。身体的には問題がない方でも認知機能が大きく低下すると自立した生活が送りにくくなり、これが健康寿命を短くする要因にもなっています。

カルシウムは乳製品、肉類に多く含まれていますが、食事による摂取は国民健康・栄養調査によると推奨量に対して20〜30%も不足しています。体重の1〜2%も含まれていて、そのうちの99%は骨や歯に存在し、残りは血液、筋肉、神経などにあって神経伝達物質として使われています。
1日の推奨量と許容上限量については「日本人の食事摂取基準」(2020年版)に掲載されています。カルシウムの男性の推奨量は年齢によって異なります。
〔男性:カルシウム推奨量〕
1〜2歳:450mg、3〜5歳:600mg、6〜7歳:600mg、8〜9歳:650mg、10〜11歳:700mg、12〜14歳:1000mg、15〜17歳:800mg、18〜29歳:800mg、30〜49歳:750mg、50〜64歳:750mg、65〜74歳:750mg、75歳以上:700mg。
カルシウムの男性の許容上限量は年齢によって異なります。1〜17歳の許容上限量は掲載されていません。
〔男性:カルシウム許容上限量〕
18〜29歳:2500mg、30〜49歳:2500mg、50〜64歳:2500mg、65〜74歳:2500mg、75歳以上:2500mg。
カルシウムの吸収率は30%ほどで、イオン化することで吸収率が高まることから、胃液が分泌されない空腹時(起床後、就寝前)に摂るのが効果的です。
カルシウムは体内で不足すると骨から溶け出て補われます。また、汗とともに排出されるため、運動をする人は多く摂ることがすすめられます。

筆記具へのこだわりは誰にもあることですが、発達障害児は特に強いこだわりがあり、この筆記具でなければならない、学習のときと試験のときでは別の筆記具でなければ納得しない、試験問題がうまく回答できないということもあります。発達障害の中でも、学習障害児で書字障害がある場合には、微妙な感覚の違いが文字に現れてくることから、筆記具へのこだわりには驚かされます。
ただ、デザインや書き心地ということではなくて、他の人からしたら、まったく同じとしか感じられない鉛筆であっても、芯の硬さと色が同じであっても、こちらでは書けるけれど、こちらでは思ったとおりの文字が書けないということもあります。六角形の鉛筆は、転がりにくく、3点(親指、人差し指、中指)で押さえるために、3の倍数の形になっています。三角形では持ちにくく、九角形では丸に近くなって持ちにくく、転がりやすくなります。
色鉛筆の断面が丸いのは、文字ではなく、絵を描くために開発されたもので、文字よりも複雑に動かすために、さまざまな持ち方をすることを想定して、形が決められています。
発達障害では感覚過敏の触覚過敏の子どもも多く、指先の微妙な感覚の違いが把握できずに、3点で押さえにくい場合も多々あります。そのために握る持ち方をする子どもも少なくありません。
六角形の鉛筆は比較してみても同じ形に見えます。表面の加工も同じようでも触覚過敏があると違いがあるように感じてしまいます。一番書きやすい鉛筆であっても、長さによって力のかかり方が違い、また芯の硬さによっても感覚が違ってきます。形と長さと芯の硬さによって書きやすさが違い、その感覚が文字を書くときの集中や正確さなどにも変化を与えるので、これはこだわりというよりも、その子どもにとっては別のもので書かされているような感覚であることを理解してほしいのです。

新型コロナウイルス感染症がなかった平穏無事の時代には、同じ才能だけでは発展性がないということで突出した才能が求められ、移住してくる人も、その地域にいない人材が期待されていました。期待をされて移住したのに、地域の閉鎖性もあって、思ったように受け入れてくれないということはありましたが、それは「出すぎた杭は打たれない」といわれるほどの突出した状態ではなかったということが指摘されていました。
今まで地域で、出すぎた杭の存在で、それなりに稼いでいた人にとっては、自分よりも出すぎた杭が移住してくると注目度が低下する、稼ぎが減るという不安や場合によっては恐怖心もあって、邪魔をしてくるようなことがありました。私たちも地域活動の場を関東から地方に移したときには、こちらとしては取って代わろうという“意思”はまったくなくて、自分たちの“意志”を貫ければよいという感覚でしかありませんでした。
そんなつまらないことをしても、出すぎた杭が他と並んだり、他の杭よりも地面に沈むようなことはないのに、攻撃をしてくるようなことをする地域を離れるほうが余計な心配をしないでよい、ということで他の地域に杭を打ってみたら、そこは出すぎた杭への期待があり、他にも出すぎた杭がたくさんあることがわかり、ここなら安心して活動できるという判断もしました。
しかし、これも平穏無事の時代の中でのことで、コロナ禍に突入してからは、出すぎた杭が稼ぎの邪魔になると見なされた瞬間に、そこを目がけて打ち込んでくるような人が出てきました。それは同業者、競業者と見ている人の行為ですが、こちらとしては仕事を奪うつもりはまったくなくて、むしろ周囲の方々に活躍してもらい、もっと稼げるようになってほしいという大らかな気持ちでの活動なのですが、それが理解できない人にとっては味方であるはずの存在も敵に見えてしまうようです。
地域の人の仕事を奪うようなことは絶対しないというスタンスを貫いているのは、東京を中心に動いていたときに、他にない存在でいないと、どうしても足を引っ張ろうとする人が出てきたからです。自分が出る杭になっていないのに、他の出る杭のせいで仕事がうまくいかない、と考えるような人が、まだまだ多いのです。そして、そんな考えの人はコロナ禍で急増しました。むしろ、コロナ禍を経験して、逆の発想をするべきなのですが。

◎健康食品業界の騙しの温床
健康食品には「良いものもあれば悪いものもある」というのは一般の認識で、さらに「安全なものもあれば危険なものもある」という認識も抱かれがちです。これはほぼ当たっていると言って間違いがないことですが、使用する人は良いもので安全なものを求めるのは当然のことです。良いものというのは、期待する効果が得られるものという、言葉を変えれば“薬効”を求めているということです。
健康食品業界では使われない“薬効”という言葉をあえて使ったのは、購入する人は薬効を期待しているのに、販売するほうは薬効を絶対に表示したり、述べたりはしません。というのは、医薬品と医療機器を規制する「医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律」(略して薬機法)によって、効能効果が述べられるのは医薬品だけだと定められているからです。
薬機法には、医薬品は日本薬局方に収められているものと書かれています。日本薬局方は医薬品のリストです。これに載っていないものは医薬品ではなくて、口から入れるものは食品扱いとなります。次に書かれているのは、人または動物の疾病の診断、治療または予防に使用されることが目的とされるもの、ということです。医薬品でないものは治療はもちろんのこと疾病の予防にも使うことはできないのです。
最後に書かれているのは、人または動物の構造または機能に影響を及ぼすことが目的とされるもの、ということで、例えば血液サラサラや活性酸素を消去する抗酸化作用も述べることはできません。
これらの規制を具体的に示すために出されたのが「無承認無許可医薬品監視指導マニュアル」で、この名称からしてわかることは、医薬品の範疇のことを述べると、健康食品は承認も許可も受けていない医薬品となり、偽薬と同じように厳しく取り締まるということを示しているのです。
そのとおりに従っていたら販売できなくなってしまうような内容なのですが、効能効果も言えない、機能性も言えないということを逆手にとって、いかにも効きそうなイメージで販売されている健康食品も多いのです。商品の実際の中身が言えないということから、優れた商品が選べないというのが実態なのです。
(日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人)

日本糖尿病学会の「科学的根拠に基づく糖尿病診療ガイドライン」の中から運動療法について前回に続いて紹介します。
◎糖尿病の運動療法の効果
2型糖尿病患者において心肺機能の低下は、心血管障害や死亡率に関連があると考えられている。運動療法が2型糖尿病患者の心肺機能に及ぼす影響についての研究のメタアナリシスでは、平均して最大酸素摂取量の50〜75%の強度の運動を1回約50分間、週に3〜4回、20週間行った場合、最大酸素摂取量は有意に増加(11.8%)したと報告されている。
さらに2型糖尿病患者は、インスリン抵抗性や肥満、高血圧、脂質代謝異常を伴っている場合が多く、運動療法によってこれらの異常が改善されるとともに血糖コントロールが改善する。8週間以上の運動療法を行った研究のメタアナリシスでは、有意な体重減少は認められないにもかかわらず、HbA1cは有意に改善(約−0.6%)したと報告されている。
また、HbA1cと心肺機能の改善には、高い強度の運動が有効であった。糖尿病の診断から早期の患者においては、運動療法を追加しても、食事療法による改善以上の効果は見られなかったとの報告もあり、運動療法による血糖値改善効果は、糖尿病の時期やコントロール状態によっても異なる可能性があるが、一般的には、糖尿病治療において運動療法は食事療法と組み合わせることにより、さらに高い効果が得られると考えられている。また、いわゆる「運動療法」のみならず、日常生活において身体活動量を増加させることも効果的であると考えられている。
1型糖尿病患者においても運動により血糖値は低下するが、運動の長期的な血糖コントロールへの効果は不明である。しかしながら、糖尿病患者は心血管疾患を生じるリスクが高く、運動によりこれらのリスクを減少させると同時に、生活の質を高めるなど血糖コントロール以外の効果が期待されるため、運動の強度が中等度以下の運動療法は勧められる。合併症がなく、血糖コンロトールが良好であれば、インスリン療法や補食を調整することにより、いかなる運動も可能である。
その他、糖尿病患者において運動療法は、圧反射の感受性を改善する。一方、血管の内皮機能や硬さに対しては改善するとの報告が多いが、脈波伝播速度は変化しなかったとの報告もある。また、血中アディポネクチン濃度に関しては、変化しないとの報告と、増加したとの報告がある。

文部科学省の「食に関する指導の手引」では教科ごとの食に関する指導を各論として掲載しています。ここでは家庭、技術・家庭の中学校の食に関連する内容を前回に続いて紹介します。
3 内容の取扱い
(3)内容の「B衣食住の生活」については、次のとおり取り扱うものとする。
イ (1)のア(ア)については、食事を共にする意義や食生活を継承することについても扱うこと。
ウ (2)のア(ア)については、水の働きや食物繊維についても触れること。
エ (3)のア(ア)については、主として調理実習で用いる生鮮食品と加工食品の表示を扱うこと。(ウ)については、煮る、焼く、蒸すなどを扱うこと。また、魚、肉、野菜を中心として扱い、基礎的な題材を取り上げること。(エ)についてが、だしを用いた煮物または汁物を取り上げること。また、地域の伝統的な行事食や郷土料理を扱うこともできること。
オ 食に関する指導については、技術・家庭科の特質に応じて、食育の充実に資するよう配慮すること。
第3 指導計画の作成と内容の取り扱い
3 実習の指導に当たっては、施設・設備の安全管理に配慮し、学習環境を整備するとともに、火気、用具、材料などの取り扱いに注意して事故防止の指導を徹底し、安全と衛生に十分留意するものとする。
〈中略〉また、調理実習については、食物アレルギーにも配慮するものとする。

「出すぎた杭は打たれない」というのは、以前からよく使われている言葉で、もちろん「出る杭は打たれる」という諺(ことわざ)をもじったものです。これまでオリジナリティーを発揮して諺をもじってきたのに、もはや使い古されたと言われてもしかたがない言葉を出してきたということは、とうとうネタ切れかとも言われかねないのを承知して、わざわざ使ったのは、新型コロナウイルス感染症の拡大から、出すぎた杭(くい)は打たれないという常識が、通用しにくくなり、出すぎた杭であっても打たれるようになってきたと感じているからです。
「出る杭は打たれる」というのは、才能をあらわす者は周囲から疎まれるということを指していて、本人は出過ぎたふるまいをしているつもりはなくても、勝手に出過ぎたと思われてしまって、邪魔をされることがあります。この諺の“出る杭”というのは地面に一列に並んだ杭のことで、高さを一定にするために標準よりも出ている杭は叩いて他と合わせるようにします。日本人に限らないのかもしれませんが、周囲と合わせて、競争をして突出することがないのが平穏無事に過ごす秘訣とされてきました。
これは平和な時代、必死になって競争しなくても生き延びることができた時代に、平均的な活動をしていればよいというときのことであって、新型コロナウイルス感染症の拡大によって、客は来ない、物は売れない、感染が収束してきたので客足が戻ってくるものと思って準備をしていたのに、まったく期待はずれだったという状況では、平等を求めていたら、みんなで頭を揃えるどころか、自分だけが地面に沈み込んでいって、周囲から置いていかれることにもなりかねません。
平等というのは、同じ条件で戦っていけば、同じような結果が出るということを指しています。同じように並んだ杭も、実は微妙に長さや太さが異なり、同じ力加減で打っているのに地面への沈み方が違ってきます。それでも平穏無事な時代では、少しくらいの差は問題なく、あとで回復することもできました。ところが、禍(わざわい)という文字が使われるほど、厳しい状況になっていると平等に並んだつもりでいても、いつのまにか自分だけが沈んでいたということにもなります。
だからこそ、出すぎた杭になって周囲の注目を集め、どうせ買うなら、どうせ食べるなら、どうせサービスを受けるなら、ここに限ると言われるくらいに存在感を示すしかないと意識が大きく変わるようなことになったのが、コロナ禍での生き残りをかけた戦いの姿です。