京都以外の地方では“先の戦”といえば第二次世界大戦を指していますが、京都だけは応仁の乱(1467〜1477年)を指すというくらい歴史があります。
京都で「戦後」と言われたら、それは今から80年前の第二次世界大戦の後のことなのか、それとも550年ほど前のことなのかを確認しておかないと、話が進まないということも聞かされていました。
京都の感覚である戦後を生き残ったのが老舗中の老舗で、500年を越えているということなので、応仁の乱は大きな区切りとされています。ここが100年を越えたら老舗という全国的な感覚とは大きく違っているところです。
応仁の乱では京都全域が戦場となった戦いが11年間も続いたために、洛中と洛外のほぼ全域、北の船岡山から南の二条通りまでの一帯が延焼しました。焼け残ったのは大報恩寺(千本釈迦堂)本堂、蓮華王院(三十三間堂)本堂、教王護国寺(東寺)五重塔だけであったと伝えられています。
まさに大戦によって焼け野原になって、そこから復興した京都の街が今も続いているというのが世界から人を集める原点ともなっています。
確かに、京都は第二次世界大戦では大空襲がなく、それは焼け野原になった東京、名古屋、大阪、神戸、岡山、広島などが都市計画によって、一気に近代化を進めたのとは大きく違っています。
このような話が喧伝される中、これとは違ったことが伝えられることがあります。
それは現在の京都の街としてイメージされるところは、明治時代になってから復興させた古都が、そのまま受け継がれることになったという話です。
明治維新のきっかけは、京都を都として継続させることが難しくなったからだということで、そのきっかけについては次回に続きます。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕






