「物心一如」から話は「迷悟一如」(めいごいちにょ)に移ってきて、お題を途中から変えようかと“迷った”のですが、迷うことも悟ることも一体であるという意味がわかるまで迷ったままで書くべきかとの考えでいます。
迷った状態は苦しみであり、苦しみのない状態を求めるために、さまざまな物を求める人と、心の救いを求めて訪ね歩く人が少なからずいます。
苦しみの根源は執着であるという教えが古くからあり、物への執着を捨てようとする“ミニマリスト”の行動は正しいように見えても、その行動そのものが執着であることには気づきにくいものです。
では、物への執着は続けてよいのかというと、それは違っているという認識の人が多いはずです。
迷いの苦しみをなくして、悟りを得ようと一生懸命に励むのは、前回に紹介した“誤った認識に執着する迷い”そのものです。
そんな執着心も本質的な一体性においては無意味であるということが「迷悟一如」と「物心一如」の視点です。
“迷いの人生”を歩むこと自体が悟りへのプロセスであり、現実をありのままに受け入れる姿勢こそが悟った自分に近づく方法であるとの考えがあることを伝えています。
しかし、そのことは、なかなか通じない、理解してもらえないのが実際のところですが、その伝える実践が“迷い”だとする、すでに悟っているわけではないにしても、私は“悟り”に向かって邁進していると感じているところです。
〔小林正人〕






