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「支援」の活動は、支援とは何なのかを考えることも大切になります。その例として、私が代表を務める特定非営利活動法人日本メディカルダイエット支援機構の支援を取り上げて紹介していきます。

日本メディカルダイエット支援機構は、2008年に内閣府より特定非営利活動法人の認証を受けてから、ずっと守り続けてきたことがあります。それは法人名と活動の一致です。

「メディカルダイエット」は、勘違いされがちな“医学による痩身”ではなくて、医学に基づいた健康づくりで、平たく言えば“生活習慣病予防”です。

そのための手段(作戦)として、健康維持のための食事療法と運動療法の研究、それも単独の足し算(+)ではなくて“食事×運動”の組み合わせによる掛け算の効果を得る方法で、いかに“無理なく無駄なく”健康づくりを継続させられるか、その実践のための支援も続けてきました。

支援というと、何かをしてくれることを期待される向きもあるのですが、「支援機構」の意味するところは、直接的な支援ではなく“間接的な支援”です。支援が必要な方々に対して私たちが直接的に支援をするのではなくて、支援する人や団体・企業などに対する支援をする団体を指しています。

この連載コラムのテーマの「支援する人を支援する」は、私たちの立場を示していると同時に、活動の理念(方針、目的)でもあります。

法人名の「日本」は、地域限定や業種限定ではなく、全国を視野に置いた活動をするという意味はもちろんのこと、“日本のメディカルダイエット”という意味も込めています。日本人は世界と比べても特徴的な体質、特別な体質があり、それを考慮しない健康づくりは“無理”につながり、“無駄”にもなりかねないという考えに基づいた研究と活動を進めていくことを意味しています。

法人形態である特定非営利活動法人はNPO法人とも呼ばれます。これは「Non Profit Organization」の略で、直訳すると「利益を得ない団体」となります。この場合の利益というのは分配をする稼ぎのことで、利益が得られたら、これを公益活動に注いでいくのが本来の形です。

すべてを合わせた「特定非営利活動法人日本メディカルダイエット支援機構」は、私たちの「支援する人を支援する」という覚悟を示す法人名なのです。
〔特定非営利活動法人日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

1223の並びは、いろいろと語呂合わせができそうですが、年末ということもあって記念日のイベントややりにくく、健康関連の記念日はありません。毎月23日の記念日だけの紹介です。

毎月23日:「乳酸菌の日」(カゴメ)、「不眠の日」(エスエス製薬)、「国産小ねぎ消費拡大の日」(小ねぎ生産県協議会)

NHKの「トリセツショー」は健康情報を得る機会として多くの人に信用されているところがあって、同番組の内容を示して、自分が伝えたい情報の裏付けとして使われることも多くなっています。

腸内細菌の善玉菌を増やすことによって、さまざまな健康効果があり、中でも免疫を強化するという魅力的な放送回があり、これを引用して販売に利用する人がいて、耳を疑うようなことを言っている場面に出くわしました。

その番組では、腸内細菌は40兆個以上と紹介していました。これに間違いはないとしても、以前は100兆個、今では1000兆個と言われる中で、40兆個以上という表現はどうなのかという疑問もありますが、これは本題ではありません。

善玉菌の中の酪酸産生菌は酪酸を作り出していて、酪酸は短鎖脂肪酸の一種であり、短鎖脂肪酸には免疫を高める働きがあります。酪酸産生菌は食物繊維をエサとしているので、食物繊維を多く摂ることが大切ということで、食物繊維が多く含まれる食品を点数化した育菌カードで示していました。

しかし、酪酸産生菌が主にエサとしているのは水溶性食物繊維であって、不溶性食物繊維が多いものをエサとして紹介してよいのかという疑問があります。

善玉菌を増やすなら、善玉菌そのものを摂ればよいということを主張して、乳酸菌の摂取をすすめている人がいるのですが、酸素が必要な乳酸菌は小腸では生き残れても、無酸素状態の大腸では生き残れません。乳酸菌を摂るよりも、大腸内の酪酸産生菌を増やすためのエサを摂るのが正解です。

この番組を引用して、短鎖脂肪酸が多く含まれたものを摂ればよいとして酢を使うことをすすめている人もいたのですが、酢は小腸で吸収されて、大腸に届くことはありません。科学的に考えれば、すぐにわかることだけに、基本的な知識は重要です。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

知り合いだから支払う金額を少なくしてほしい、支払う時期を遅らせてほしい、収益が入ってからにしてほしいというのは金銭が関わる交渉をした人であれば必ずといっていいほど言われたことがあることです。そのことに困った思いをしている人でも、自分が支払う立場になると、それと同じことを言っていたという経験をしている人も多いはずです。

そのようなことを言ってくるのは、経済的に厳しいということだけではありません。無理を言っても受け入れてくれるという期待感や甘えの気持ちがあるのは当然のこととしても、そのような駆け引きをした結果として今後の仕事がダメになってもよいという気持ちがあることが多いようです。

今回は安くしてくれれば次からは普通の支払いをする、その仕事の次にあることを一緒にしてもらうというようなことを言う人もいますが、そのようなことを期待しても、その通りになったということはほとんどありません。私の場合は、まったく経験していません。

厳しい時代に生きているのは安くしてほしいと言われる側も同じことであって、そのようなことを言ってくる人は相手の気持ちがわかっていない人、自分の主張をしてくる人、つまり何度も安くすることを求めてきます。

そのような経験ばかりだったところに、「知り合いだから多く払う」と言われたときは二度見ならぬ“二度聞き”をしました。

そんなに安い仕事をしていたら長続きしない、今後も付き合いたくても仕事を辞めていたら付き合うことができないので、相手の価値に相応しい金額、それ以上の期待を込めた金額を払うという考えです。

今後も付き合いたい人には先に多く支払っておいて、長く付き合って得をしようという考えのもとに行動してくれる人がもっと増えて、“二度聞き”しないで済むようになってほしいところですが、なかなか難しいことです。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

有益な情報を持っている人を合わせることで、新たな価値を生み出すきっかけになるのは、どの世界でもあることで、ウォーキング団体の役員と会員組織の活用で実績のある営業マンの面談をセッティングしました。

団体役員は広告業界では名を馳せた方で、過去の実績が活かされて新たな世界でも活躍されていたので、その実績を語ることで自分を知ってもらいたいという意向がありました。そのことは営業マンにも伝え、時間がかかるかもしれないこと、相手の話が終わるまでは中断しないこと、それ以降に本題を切り出すことを確認してから臨みました。

予想どおりの展開になり、これから営業マンが話をする番になって、初めて口に出したのは役員も私も唖然とさせるような言葉でした。それは「自分も自慢話をさせてもらいます」。

役員の話は自慢話ではなく、過去の実績と現在の仕事の関わりであり、それを自慢話と感じたとしても、その場で言うことではないのは普通の営業感覚です。

その話の内容も仕事ではなく、自分の家柄や生い立ちから始まって、最後の提案の文面を見せて短く話をまとめたという感じでした。家柄や生い立ちということでは、役員の祖父は歴史の教科書にも出てくる方で、それをひけらかすこともなく、淡々と仕事に関わる話をしていたのですが。

後日に営業マンから会ってほしいとの連絡があり、反省の弁があるのかと思っていたのに、本人の口から聞いたのは「どうして連絡が来ないのか」という疑問の声でした。

相手の自慢話に対して、自分も同じように返しただけ、というつもりだったようです。

実際はどうあれ自慢話と感じたら、自分を偽ってでも付き合うのは営業マンの鉄則と思っていたのですが、そうではなかったという結果です。後に営業マンを紹介してくれた広告関係の方に聞いでも、「自分を小さく見せたくない、見られたくないという人ではない」ということで、今でも疑問が残っています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

記念日が少ない12月下旬にしては、健康に関わる記念日だけでも4つが紹介できます。

「ジェネリック医薬品の日」とジェネリック医薬品協議会がジェネリック医薬品承認のための科学的根拠を厚生労働省が定めた1997年12月22日にちなんで制定。

「スープの日」日本スープ協会が温かいスープをより温かく感じることができる冬で、いつ(12)もフーフー(22)とスープを飲むという語呂合わせで制定。

「酒風呂の日」高橋助作酒造店が冬至は杜氏を連想させることから酒風呂で健康増進をしてほしいと制定。

「はんぺんの日」東京都蒲鉾水産加工業協同組合が冬至の日に「ん」の字が2つ以上ある食べ物を食べると運が向上して無病息災に効果があると言い伝えられていることから、はんぺんを食べてもらうことを目的に制定。

毎月22日:「カニカマの日」(スギヨ)、「禁煙の日」(禁煙推進学術ネットワーク)、「夫婦の日」(毎日新聞、味の素など)、「ラブラブサンドの日」(日糧製パン)

子どものときに母の実家の寺で生まれ、3歳のときから小学校にあがる直前までの期間、親元を離れて寺で暮らしていました。それが今の性格や考え方に影響を与えているのではないか、と言われることもあるのですが、浄土真宗の寺だったので、他の宗派のような張り詰めた雰囲気ではありませんでした。

他の宗派では、というよりも、仏教そのもので禁じられている肉食妻帯は浄土真宗では禁じられていません。寺があったのは漁師町だったので、魚は檀家が持ってきてくれるので買う必要がない状態で、子どものときに肉を食べた記憶がありません。

それが今の体質(獣肉を食べると調子が悪い)の要因にかもしれないのですが、肉食妻帯の肉は鳥、獣、魚も含んでいるので、他の宗派だったら堕落ということになるのかもしれません。

肉食妻帯の妻帯のほうは、子どものときに疑問を感じたのは、近所の寺に住職の子どもや孫がいたことです。禁止をされていても何かの理由があれば結婚をしてもよいのか、子どもを作ってもよいのかということですが、子どもだったので養子とか婚外子のことは思いつきもしないことでした。

浄土真宗は親鸞聖人に妻がいて、開祖は後のことなので、それで妻帯を認めたなどという他の宗派からの指摘もありますが、妻帯を認めたことから真宗十派という今の隆盛もあると考えられています。

真宗十派のうち親鸞聖人の家族から派生したのは浄土真宗本願寺派(本願寺)西本願寺、真宗大谷派(大谷本廟)東本願寺、真宗木辺派、真宗出雲路派だと大学で学びました。親鸞聖人の弟子から派生して、子どもが継いでいったのは真宗高田派、真宗佛光寺派、真宗興正派、真宗誠照寺派、真宗山門徒派、真宗山元派です。

今の自分が存在しているのも、他の宗派から指摘されることもなく生きていけるのも親鸞聖人のおかげという気持ちで過ごしています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

他力本願というと、他人に頼って生きていくというイメージがあって、あまりすすめられることでもなければ、褒められることでもないという行動指針に思われがちです。しかし、「Original Mind」の精神として、他力本願を基本として行動を心がけています。

仏教の世界では、修行というと苦行を指すことがあります。坐禅や瞑想、それも室内で行うことではなくて、屋外で雨風に晒されながら、心身の限界まで挑むという印象があるかもしれません。

その苦行を経験することで、自分自身を磨き、願いをかなえていくというのは自力本願です。苦行とはいかないまでも、五穀断ちをする人もいます。これは穀物を人間の穢れにまみれた俗物の代表的なものと考えて、それを避けることで身を清廉にして修行に取り組もうとすることを指しています。

五穀断ちをすれば、それが修行になるということではなくて、修行のアイテムの一つだとは思うのですが、お茶断ち、酒断ちをして、それも短い修行期間だけこなして、修行をした“気分”になるという略式の感覚が広まっているようです。

そのようなことでも、頑張った自分に優越感を得て、自力本願としてするような感覚が世間にはあることも違和感があるところです。

このようなことを書くのは、私が大学や社会人として学ばせてもらった仏教の世界では、自力本願は不要で、阿弥陀如来を信心する他力本願だけが存在しています。これは浄土真宗の開祖の親鸞聖人の教えです。この教えに従って、本願を得る場が本願寺となるわけですが、信心をするのは、ただワンフレーズを唱えればよいということではなく、経文を読み続ければよいということでもありません。

親鸞聖人の教えを真理として、自分の行いとのズレを確認することが信心の修行であり、信心のためには小さなことであっても実践し続けることはあります。他力本願は、“果報は寝て待て”とは違う行動を伴った生活習慣であり、これを真理に基づいて取り組むことが修行です。

この修行は、短期間の苦行とは違って、“小さなことをコツコツと”という芸人さんのフレーズではないのですが、生きている限りは実践し続けるという終わりがないことなのです。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

師匠から奥義を授けられて後継者になることは「衣鉢を継ぐ」と言われます。

武術の世界であれば奥伝を継ぐときには巻き物を渡されますが、それには人に伝えるべき重要事項が書かれているのが通常のことです。武術の流派によっては、巻き物には何も書かれていなくて、「白紙に戻ること」が奥伝として伝えられることもあります。

「衣鉢を継ぐ」というのは、これと同じようにも考えられていて、財産になるようなものを継ぐ(相続する)のではなく、一見すると価値がないようなものを継いでいて、実は重要なことを継いでいるというのが“衣鉢”です。

衣鉢は僧侶であることを示す法衣と托鉢をする鉢を指しています。この二つがあれば、修行をする僧侶として生きていくのに必要な最低限の食べ物を乞うことができます。受け継ぐ法衣は、古代インドのサンスクリット語(梵語)ではカーシャーヤ(kasaya)と呼ばれ、これは“壊色”“混濁色”を意味しています。

仏教では本来は、僧侶が財産になるものを持つことが禁じられていて、衣服も買うのではなく、使い道がなくなって価値がない布(ぼろ布)をまとっていました。その色は、在家の信者の白と区別するために黄土色などに染められていました。

師匠から継ぐ衣装は、汚れた色のもの、実際に汚れたものであることから、カーシャーヤは汚れたもの、粗末なものを指すようになりました。これを語源として生まれたのが袈裟(けさ)で、インドでは古くは法衣の上に“袈裟懸け”をすることもありました。

しかし、これも使い古された布をつなぎ合わせたもので、少なくとも現在の僧侶の絢爛豪華な袈裟とは、まったく違うものです。

寺に属さない在家信徒は衣も鉢も継ぐことはありませんが、形ではなく、精神性を継いでいくということで、あえて「衣鉢を継ぐ」という言葉を使って、何を継いでいるのか、何を注ぐべきなのかを常に自分に問うています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

生きている現世で、まるで地獄に落ちたような苦しみを経験することは「生き地獄」と表現されることがありますが、そのような表現は自分には当てはまらないと考えています。地獄を楽しむというのでもないのですが、地獄は極楽に変えられるという感覚があります。

それは勝手に思っていることではなくて、浄土真宗の開祖の親鸞聖人が説いていたことです。

他の宗派とあまりに違うことですが、浄土真宗には地獄は存在していません。亡くなった人は極楽に行けるという極楽往生ですが、誰でも極楽に行ける、念仏を唱えるだけで極楽に行けるということではありません。

阿弥陀如来に信心をすることで極楽に行くことができるということです。地獄という概念がないので、一生懸命に信心しないと「地獄に落ちる」ということもありません。地獄に落ちたくなければ善行を積めばよい、と言って苦行や、苦行がわりの金品を求めるということもありません。

では、親鸞聖人の教えの中に地獄はないのかというと、「自業苦」と書いて「じごく」と読む教えがあります。これは自業自得の自業(自らの行為)によって苦しむことであり、これは現世で経験することです。この苦しみを、楽に変える生活が「業苦楽」(ごくらく)で、自業苦がなければ業苦楽もない、つまり地獄を経て阿弥陀如来に信心をした人は、すべて極楽に行けるようになるという発想です。

そのような発想をすると、タイトルに掲げた「“生き地獄”は当たり前の世界」というのは、それこそ当たり前のことなので、生き地獄(自業苦)に嘆くのではなく、極楽(業苦楽)を目指して前進していくことを親鸞聖人は示してくれたということを伝えています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕