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これまで「一如」(いちにょ)について、物心一如、迷悟一如、心身一如、生死一如といった仏教の書に現れる用語を引き合いに、仏教思想の根元を少しでも見たいという気持ちもあって書いてきました。

一如は、仏教用語に由来していて、「二つのものが区別なく、一つの真実の姿であること」を指しています。今回のお題の「苦楽一如」は、もう一段階上を目指そうとしている方々に対して、呼びかけるような用語といえます。

苦と楽は対比・対別する関係だと思われがちです。“苦楽を共にする”という言葉はベストなパートナー(夫婦に限らず、一緒に行動する人)に対して使われています。

辛い時も楽しい時も、すべての経験を一緒に体験すること、それを分かち合うことを意味しています。単に生活や仕事などを共にするだけでなく、感情や運命を共有する信頼関係や深い絆を表す言葉として、喜怒哀楽のシーンで何度となく耳にしているはずです。

ここで使われる“苦楽”は、「苦あれば楽あり」「楽あれば苦あり」とセットで使われることが多くて、苦しいことがあるから楽しいことがあり、楽しいことの後には苦しいこともあるというような、対比・対別の感覚で使われることが多くなっています。

また、苦しみのある状態と苦しみのない状態が提示されて、前者(苦)から後者(楽)へと進むことが示される学びの場も存在しています。

それに対して、「苦楽一如」は苦しみと楽しみは対立する別のものではなく、同じ一つのもの(表裏一体)だという仏教(東洋哲学)的な人生観です。

苦しいことは避けて、楽しいことばかりを求める向きもあるのですが、苦しいことも楽しいことも、どちらも人生の不可欠な要素として、“あるがまま”を受け入れて、その中で前を向いて(見据えて)生きていく姿勢を指しています。
〔小林正人〕

「抹茶新茶の日」丸七製茶(静岡県島田市)が、茶は草冠が十と十、下を八十八とすると百八になることから立春から数えてほぼ108日目になる5月22日を制定。

「たまご料理の日」全日本うまいもん推進協議会が、5月の05でたまご、22日をニワトリ・ニワトリと読む語呂合わせで制定。

毎月22日:「カニカマの日」(スギヨ)、「禁煙の日」(禁煙推進学術ネットワーク)、「夫婦の日」(毎日新聞、味の素など)、「ラブラブサンドの日」(日糧製パン)

人間の欲望には限りがないようで、もっと欲しい、もっと持ちたい、買えるだけ買いたいという願いを話す人は、いくらでもいます。

さすがに食べられるだけ食べたいという人はいないはずですが(大食いタレントは別にして)、もっと美味しいものを食べたい、もっと高いものを食べたいという人には、何人にも会ったことがあります。

「足るを知る」は、自分の置かれた状況や持っているものに満足をして、それ以上のものを求めない心のあり方を指しています。

余計なものは何も持たない、できる限り減らすという、行き過ぎたミニマリズム、断捨離とは違っています。

身分相応に満足を知るということを知るという意味であって、現在の状態で足りているということを知って、それ以上を求めないようにするということを意味しています。

似たような感覚で「分をわきまえる」という言葉が使われることがあるのですが、これとは少し違っています。

分(ぶ)は自分の地位や身の程のことで、それを知って、出過ぎたことをしないようにするということを意味しています。身の程をわきまえると表現されることもあります。

いわゆる“身の程知らず”のことで、自分の能力や限界などをわきまえずに、過度の自信を持ったり、実力に見合わない言動をすることを指しています。分不相応な高望みということですが、この場合の分は「ぶん」と読みます。

これに対して、「足るを知る」は満足することを知るということで、知るべき事柄が異なっています。

「足るを知る」は、中国の思想家・老子が書いた(とされる)『道徳教』の一説の「知足者富」が起源(発祥)として知られています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

発達障害者は、今後さらに進んでいく少子高齢社会では貴重な人材とされています。特にIT業界では人材不足は深刻な問題で、現在でも不足しています。それに加えて超高齢化社会で期待される海外の人材が期待できないことから、医療・福祉人材としても発達障害がある人への期待が高まっています。

その人材となってもらうためには、一定の知識と技術は必要です。最先端の技術を身につけている必要はなくて、サブの仕事も今後は数多く生まれてきます。それを見据えた、さまざまな支援活動も始まっているものの、まだパソコンの基礎やタブレットが使えるというレベルであって、その他大勢ではなく、飛び抜けた人材を育成する仕組みも求められています。

これは当然の動きであっても、これまで着手されている支援の仕組みは、コロナ禍の前に考えられたもので、コロナ禍で学習が思うように進まない、支援の成果が充分に出ないということの影響を受けた子どもたちに対しても通用するとは限りません。

また、世界に目を向けると国同士の争いが世界経済に影響を与えることが明確で、その影響を身近に感じているのは親世代だけではありません。子どもも敏感に感じ取っていて、中でも発達障害児で過敏な反応をする子どもたちは、不安を通り越して悲しみや絶望感を抱くことにもなりかねません。

もしも、これまでの社会的な仕組みや常識がひっくり返るようなことがあったときには、最も大きな精神面での影響を受けるであろう発達障害児と発達障害者のことは常に考えに入れて判断をする必要があります。

そのような認識のうえに、発達障害がある人を理解して支えるサポーターの育成を進めていかなければならないと認識しています。
〔セカンドステージ連盟 理事長:小林正人〕

よく使う言葉は、その意味を理解して使っているのかとうと、理解せずに(理解しようともしないで)使っているということは普通に起こっていることです。

といっても、意味不明であってもニュアンスで把握していて、それが案外と当たっている(外れていない)ということも少なくありません。

正しい意味合いを知らなくても、生きていくことはできるのでしょうが、知っておいたほうが知らないよりも少なくともプラスになることはあるはずです。

そんな意味不明を解明してみようと考えて始めたのが、タイトルの「意味解明」で、ひらがなのままでは意味不明であっても、漢字にしたら意味がわかりやすくなる言葉もあります。

その第一弾として取り上げたのが「おっちょこちょい」です。

おっちょこちょいは、落ち着きがなくて、軽々しい行動をして失敗しやすい性格のことで、その性格の人を指して使われることもあります。

悪いことばかりなのかというと、不注意でドジを踏みやすいと敬遠されることがある一方で、親しみやすい愛嬌のある面も持ち合わせています。

そのようは人であり、評価もされることから、おっちょこちょいはメリットとなることも多く、これを活かす営業マンや芸人も存在しています。

「おっちょこちょい」の漢字表現はないものの、おっちょこちょいは「そそかっしい」と同義語とされていて、そそっかしいは「粗忽」と書かれます。読み方は「そそこつ」で、粗忽者(そこつもの)という使われ方がされるので「そこつ」と読むのが一般的ではあるものの、そそこつが正しいとの説を支持する人も多いのです。

「ニキビの日」ガルデルマ製薬(スイス・ローザンヌ市)と塩野義製薬が、5(いつも)2(ニキビは)1(皮膚科へ)の語呂合わせで制定。

毎月21日:「木挽BLUEの日」(雲海酒造)、「漬物の日」(全日本漬物協同組合連合会)

「心が折れる」という言葉は女子プロレスラーの神取忍さんの「相手の心を折る」が発祥で、そのことは辞書にも載っています。

神取さんとは共通の知人を通じて、過去の活動を書籍化することで会ったのが初めでした。

壮絶な試合で相手の腕を折るような状況であっても、関節技で「相手の心を折る」ということで止めたという本当のプロ意識の現れということを書きました。

この試合(神取しのぶVS.ジャッキー佐藤)を取材したプロレス記者から、「あれはプロレスではなかった」と聞きました。その記者は東京スポーツの山田隆さんで、全日本プロレスのテレビ中継の解説者としても有名な方でした。

当時の後楽園ホールではテレビ中継がある日は、関係者でもあっても入れてもらえなかったのですが、中継がない日にも山田さんは取材に訪れていたので、その日には、一緒に記者席に並んで見させてもらっていました。

東京スポーツの前身は国民タイムズと言いますが、日本初のプロレス記者(山田さんの先輩)が知り合いで、後楽園ホールまで歩いて5分のところにある出版社の社長であったので、取材の勉強と称して時間さえあれば行っていました。

その日本初のプロレス記者は、厨房業界の機関誌の編集を副業でやっていて、私が厨房業界から栄養業界、健康業界と歩んでいくきっかけを作ってくれた方です。

前出の「あれはプロレスではなかった」という発言は、遺恨があるバチバチのケンカマッチで、“プロレスの常識”が通じない試合だったということを表しています。

“プロレス”はショー的要素があるもので、それがない本当に腕を折る凄惨なシーンを見ることになったかもしれない、という状態でした。これは何度も映像を見てきて、今でも感じることです。

神取さんは、最後には「相手の心を折る」ことで止めました。

それに比べたら、今では「もうダメだ」と心の支えを失わせることを何とも思わずに、平気でやってしまう人が増えてきていると強く感じています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

日本肥満学会は、新たな症候群の対策として体重を増やすことを主とした発表を行いました。

それは「閉経前までの成人女性における低体重や低栄養による健康課題」で、これまでの体脂肪を減らすメタボリックシンドローム対策とは逆という印象があります。

その発表の中から、新たな症候群の概念の「症候群の概念・定義」を紹介します。

〔症候群の概念・定義〕
◎FUSの定義は、「低体重または低栄養の状態を背景として、それを原因とした疾患。症状・徴候を合併している状態」とする。本ワーキンググループで、低体重や低栄養がもたらす健康障害の全体像を明確にし、診断基準の設定を試みた。
しかし、基準を明確に定めるエビデンスが不足していることもあり、現時点では疾患概念としての枠組みを提示することに留める方針とした。

◎FUSの概念設定の本質的な目的は「明らかな他疾患では説明できない、主に低体重・低栄養が背景となった多彩な健康障害」に着目し、早期発見・予防・介入の枠組みを構築することである。
さらに、原因疾患を持つ患者には適切な治療を優先する必要があることから、摂食障害や二次性の低体重(甲状腺機能亢進症、悪性疾患など)はFUSとして捉えるべきではなく、原疾患に対する治療を優先すべきである。

◎現時点のFUSは、主として18歳以上〜閉経前女性を対象に検討された概念であり、この概念には閉経後の女性や男性は含まれない。
これは、閉経後女性ではホルモン環境や加齢要因が大きくなる可能性があり、疾患・症状・徴候の原因について議論を要するからである。
また、男性においても低体重や低栄養に伴う健康障害が生じ得ると考えられるが、現時点では女性における有病率や影響の大きさが顕著であり、今回の概念に含めなかった。

ただし、将来的に、これらの集団における病態や健康障害に関するエビデンスが蓄積されれば、FUSの適用範囲の拡張や疾患概念の再定義が検討される可能性がある。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

自分がやってきた自業を変えられないために苦しむ「自業苦」については前回書きましたが、これは決して悪いものではなくて、次の良い状態のための通過点として着実に進んでいくべき道と考えることができます。

現在の苦しみの「自業苦」を、楽に変える生活ができれば、業の苦が楽になるということで「業苦楽」(ごくらく)となります。自業苦がなければ業苦楽もない、つまり苦しみを感じて自分を変えることができた人は、すべてが極楽に行けるという極楽往生を説いたのは浄土真宗の開祖の親鸞聖人です。

しかし、誰でも極楽に行ける、念仏を唱えるだけで極楽に行けるというような簡単なことではありません。阿弥陀如来に信心をすることで極楽に行くことができるということです。

たとえ仏であっても頼るだけでよいのかという発想もあるかと思いますが、浄土真宗では阿弥陀如来を信心する他力本願が重要となります。

現世で業苦楽(極楽)を感じることができれば、亡くなったときに即座に自動的に極楽浄土に行けるわけで、閻魔大王のお裁きを受けることもない、そもそも裁判が行われる冥土に行くこともないわけです。

自業苦を経験しなければ業苦楽もないということであれば、「苦しむことは修行のうち」と考えられることもあります。しかし、これにも異論があって、浄土真宗では苦行も坐禅もありません。

「自業苦」を経験しなければ絶対に極楽に行くことがないということではなくて、「自業苦」を感じた人であっても極楽に行くことができるということですが、この説明は他宗の方々には理解しにくいことかもしれません。
〔小林正人〕

「笑う門には福来る」とはいうものの、笑っていれば福が来るとは限らないというのが今の世の中で、笑いが起こるような講習を心がけていれば受講者が満足するということではありません。

もちろん、難しい話を、話す側が難しい顔をして話していれば緊張感が高まり、緊張感が真剣に聞くといくことにつながればよいものの、緊張しすぎて話がよくわからなかった、充分に理解できなかったということにもなります。

自分が聞く側に回ってみると、こんな話し方をしていたら、せっかくの内容が活かされないと感じることもあるのですが、自分が話す立場になってみると、案外と受講者として自分が感じていたことを実はやっていたということに気づかされることもあります。

「笑う門には福来る」は、いつも笑いが絶えない家には自然と幸福がやってくる、いつも明るく朗らかでいれば自ずと幸せがやってくるという意味です。また、悲しいことや苦しいことがあっても、希望を失わずに朗らかに生きていれば幸せが訪れる、という意味でも使われています。

今さら説明はいらないでしょうが、「門」(かど)は家や家族のことで、「福」は幸福、幸せを意味しています。

あるセミナーで講師が「笑う門(もん)には〜」と言っていて、参加者も司会者も指摘しなかったことがありました。別のセミナーで講師が「笑うカドには〜」と言っていたので安心していたら、講習テキストに「笑う角には〜」と書かれていました。

隅み(すみ)っこで笑うのではなくて、世間に向けて大笑いしなければ、と思い浮かべたことがあり、そのときに感じたことが今回の「笑う門には福は内」という諺(ことわざ)のもじりの言葉を使うようになったきっかけとなっています。
〔小林正人〕