親鸞聖人の教えの「自業苦」と「業苦楽」については、これまでに何回か書いてきました。自業自得の自業によって苦しむのが自業苦(じごく)、苦を乗り越えて楽と感じるようになることが業苦楽(ごくらく)ということですが、その例を現代の出来事を一つだけあげるとすると日産とホンダの経営統合話から破談に至る経緯です。
日産は通称で正式名称は日産自動車株式会社、ホンダの正式名称は本田技研工業株式会社です。
日産自動車について初めて文に書いたのは、ゴーストライター時代に“社風の研究”をテーマにした書籍(PHP研究所)の中でのことでした。単行本は1983年の発行で、1986年に文庫本にもなっています。
日産の発祥は、戦前の日本産業コンツェルンという戦前の財閥で、1937年には三井財閥、三菱財閥に次ぐ第3位で、鮎川財閥とも呼ばれていました。日本産業は戦前の満州に政府の要請によって進出して、自動車も扱っていましたが、戦後には日産自動車として独立しました。
戦後は国策からは離れたとはいえ、日産自動車は国とのつながりは強くて、特殊銀行である日本興業銀行が今でいうメインバンクとなって支えてきました。
日産自動車といえば「技術の日産」というキャッチフレーズが知られ、これは日産自動車のアイデンティティとなっています。
技術の日産を象徴する車種としてスカイライン、シーマ、フェアレディZがあげられます。日産自動車の社長が本田技研工業の社長に経営統合の断りを入れるときに乗っていたのはシーマでした。
シーマについては余談があって、シーマ(CIMA)の名付け親と一緒に仕事をしたことがあります。
CIMAはスペイン語で「頂上・完成」の意味で、公式見解では初代シーマの開発責任者が少年時代に父親から買ってもらった腕時計がシーマ(Cyma)のもので、それに由来するとのことになっています。
しかし、これは逸話であって、実際には広告代理店の担当が広告戦略とともに命名しました。その担当は後に日本ウオーキング協会の専務理事となりましたが、その方と一緒に同協会の活動の下請をする一般社団を立ち上げ、私が代表理事となって活動していました。
「技術の日産」は確かに多くが認めるところではあるものの、それは従来の自動車の時代のことであって、今は時代が違います。狭い日本国内では優位かもしれないのですが、大市場のアメリカでは事情が大きく異なり、燃費と長距離を早く走る“技術”が重要になります。
このタイミングで「技術の日産」をプライドとして持ち出すことは、まるでバブル時代の成功を自慢しているみたいに感じるという声が数多くあるのは事実です。
今回の破談の報道に対して、断りを入れた日産自動車のほうが本田技研工業よりも大きいとの印象を持っている人が多かったのですが、現在の企業規模、生産台数、販売額、収益、時価総額まで本田技研工業が日産自動車を大きく引き離しています。
自業苦を業苦楽にするチャンスであったのに、それを逃すような行動を起こしたのは別のスポンサーがいるのか、それとも幹部が顔色を窺わなければならない人がいるのか、という話があり、そのことについては次々回(日々修行187)に書くことにします。
日産自動車には以前にもチャンスがありました。コストカッターを得意とする海外の専門家を代表に受け入れて再建を図ったことが大失敗した、そのタイミングでした。
それが「まだ、そんなことを言っているのか」という状況に再び陥ってしまった今、残されている道は、それほど多くはありません。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕