「業苦楽」(ごくらく)を説明するために前回(業苦楽4)は「他力本願」について浄土真宗の教えを引き合いに出しました。
「他力本願」というと、なんだから他人任せ、自分では何もしないようなイメージが抱かれることもあるのですが、決して他人(ひと)任せではありません。
ここで言う「他力」は他人の力ではなくて、頼る対象は阿弥陀如来です。“頼る”と言う表現も本来は相応しくはなくて、信心すれば誰もが往生して極楽に行くことができるという教えの浄土真宗では信心して往生させてもらうこと(死に臨むこと)は他力本願です。
他力本願と聞いて、他に頼るのではなく、自分の成功は自分の力、努力の結果であって“自力本願”だという考える人がいることは理解できます。
しかし、浄土真宗の宗祖の親鸞聖人の教えを引き合いに出すなら、自力というのは阿弥陀如来の本願を疑うことであって、自力本願の自信こそが苦を生み出すことになっているということです。
他力本願について理解しにくいという中には、苦行がないと願いはかなえられないという考えから抜け出せないことがあります。坐禅や瞑想、それも室内で行うことだけではなくて、屋外で雨風に晒されながら、心身の限界まで挑むという印象があるかもしれません。
その苦行を経験することによって、自分自身を磨き、願いをかなえていくというのは自力本願です。
苦行とはいかないまでも、五穀断ちをする人もいます。これは穀物を人間の穢れにまみれた俗物の代表的なものと考えて、それを避けることで身を清廉にして修行に取り組もうとすることを指しています。
五穀断ちだけでなく、お茶断ち、酒断ちをして、それも短い修行期間だけこなして、修行をした“気分”になるという略式の感覚が広まっているようです。
そのようなことでも、頑張った自分に優越感を得て、自力本願とするような感覚が世間にはあることも違和感があるところです。
浄土真宗は、これまでの仏教と違うようだということはわかってきても、どこが違っているのか具体的なところがわからないと違いしにくいところもあるかと思い、その違いを次回(業苦楽6)は書いていきます。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕