奇跡の軌跡17 情報への渇望感

3歳で親元を離れて母親の実家の寺で暮らすようになったときには、子どもが読むようなものは仏教の絵本くらいでした。保育園にも行かず、意味もわからず、お経の文字を追いかけるか、たまに見せてもらえるテレビが情報源という生活を小学校に上がる寸前まで続いていました。

まだテレビがあまり普及していなかった時期で、漁師町(新潟県出雲崎町)だったこともあり、町で3台目のテレビが入った家という時代でした。お寺というだけでなく、テレビ見たさに多くの方々が訪れる環境でもあったので、役に立つ情報は文字よりも周囲の人の会話でした。

小学生からは両親と暮らすようになったものの、父の勤務地の山奥の村には書店はなく、家には子どもが読めるようなものはなくて、教科書は大事な情報源でした。家には広辞苑が置いてあって、教科書や教師の言ったことでわからないことがあったら、広辞苑を引いて、それでもわからないことは父母に聞くということをしていました。

テレビはあったものの(父の実家の米屋と母の実家の寺の援助で買ってもらったと後に聞きました)、山奥で入るチャンネルはNHKだけでした。そのため、あまり見る機会はなくて、大切な情報源は広辞苑という感じでした。

小学4年生のときに、都市部に転校することになり、そこで書店の存在を知って、時間さえあれば書店に通い、こんなにも知らなかったことを教えてくれるものがあるのかと驚きの日々でした。

といっても、地方のことなので小さな書店で、今にして思えば、あんなにも少ない情報で喜んでいた自分がいました。

小学5年生で転校したのは小さな町で、そこにも書店はあったものの、都市部に比べたら不便さを感じる規模でしかなくて、毎日の日課は広辞苑と学校の図書館と教科書の行き来という感じでした。

それを気づいていたのかどうか定かではないのですが、中学生のときに家に百科事典の全集がきました。カラー写真が多くて、分野別にまとめられていたので、学校の図書館よりも情報を得ることができました。この状態は高校生のときも同様でした。

上京して通った大学は、図書館が駅に向かう通路の上に建っていたので、毎日のように図書館に通っていました。まだ、コンピュータは計算機の延長のような存在で、今のインターネットのように情報を得るために使える機会となるのはWindows95の時代になってからのことです。

それまでは書籍を集め、読み込み、選択して自分が望む情報を得るという作業は、ずっと続いていました。気づいたら、家に書籍や雑誌が5000冊を超えるという状態でした。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕