投稿者「JMDS」のアーカイブ

お釈迦様は誕生したときに、いきなり立ち上がって歩き、右手を天に、左手を地に指し、「天上天下唯我独尊」との言葉を発したとの逸話を前回紹介しました。

これには仏教宗派によって説明に違いもあって、立ち上がって歩いたのは7歩であったという説や、東西南北の四方に7歩ずつ歩いたという説もあるのですが、その後の右手を天に、左手を地に指し、「天上天下唯我独尊」と言ったということは共通しています。

「この世で自分より尊い者はいない」という意味は間違いということも書きましたが、“我”は私ということでなくて、“我々人間”を指しています。

誕生の逸話ということは、それ以降のお釈迦様の偉業へとつながっていきます。

仏教では修行が重視されています。修行は「真実の自己を実現するために、自らの行いを正し、修めること」を意味しています。

修行(しゅぎょう)は、それ以外の日本語としての読み方はありません。精神や人格の向上を目的として終わりのない実践をすることを指しています。

勘違いされがちなのは修業で、これは「しゅぎょう」のほかに「しゅうぎょう」とも読まれます。修業(しゅぎょう)は学術や技芸などを習い修めることです。修業(しゅうぎょう)は習得して資格を取ることで、その際に受け取ることができるのが修業(しゅうぎょう)証書です。

話を戻すと、修行の最終目的は「悟りを開くこと」です。仏教で最も尊敬される立場が言わずと知れた仏陀(ぶっだ)です。仏陀が悟りを開いたということではなくて、悟りを開いたゴータマ・シッダールタ(インドのシャカ族の部族の長の王子)が仏陀となったということです。

一般にはゴータマ・シッダールタも仏陀も、お釈迦様と呼ばれていますが、仏陀には「悟った者」「真理に目覚めた人」という意味があります。

「天上天下唯我独尊」と誕生直後に発したのは前者の時です。生まれながらにして悟っていたわけではないのですが、さすがに仏陀となる人(聖人)は他とは違っていたという、これは逸話そのものといえます。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

抗酸化成分は、身体に悪影響を与える活性酸素を消去する作用があるということは、随分と知られるようになってきました。抗酸化成分は数多くの種類があり、それぞれの成分によって抗酸化力(活性酸素を消去する作用)は異なっています。

食品やサプリメントに含まれている抗酸化成分は、研究が進んでいて、ランキングが発表されています。それは商品選びに役立つことは間違いないことではあっても、それでも実際の選択の場面では間違いも起こっています。

それは含まれている抗酸化成分の同じ分量による強弱であって、同じだけの食品を摂れば、強い抗酸化作用が得られるわけではないということです。

もう一つ間違ってほしくないのは、抗酸化成分の性質で、このことを理解していないと、本人は健康によいことを実践しているつもりでも、逆のことをしていることにもなりかねないのです。

今回のお題として取り上げている抗酸化は“高酸化”が、その理解してほしい事実で、抗酸化力が高いほど、酸化させる力が強いということです。正しく使えば、健康被害をもたらす活性酸素を消去することができるのに対して、使い方を間違うと身体を酸化させることにもなってしまうのです。

具体的なことは、健康リテラシーの基本的な情報として、徐々に明らかにしていくことにしますが、こういったことを発言しても、メディアに取り上げられない、取り上げられたとしてもマイナスイメージで伝えられてしまうということが起こっています。

活性酸素と抗酸化作用についての正しい情報の基礎を教えてくれたのは、赤ワインポリフェノール研究で著名な板倉弘重先生(医学博士)と、活性酸素についてテレビの健康番組で初めて紹介した久郷晴彦先生(薬学博士)です。

そのエッセンスの一部だけになるかもしれませんが、健康リテラシーのテーマで発信し続けていきます。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

言葉を交わさなくても意思が通じることを意味する「阿吽の呼吸」は、本来なら息を合わせる(呼吸を一緒にする)ことをしなくてもよいはずです。

とは言いながらも、力を合わせて同じ結果に導くためには、息を合わせることは有効となります。

その言葉として、よく使われるのは「せいの」(せーの)です。同時に発言したり、同じタイミングで同じことをする前に、息を合わせるといったシーンで使われます。

地域や年代などによって最も浸透している言葉は違っていて、「いっせいのせ」や「いっせーのーで」、「せーの、で」といったものもあります。

どこで始めるのか、力を入れるのかは、それぞれの地域の人でないと感覚的にわからないことがあり、別に掛け声でなくて、同じ掛け声であってもタイミングが合わないことがあります。

息が合わないと、力を入れるタイミングがわからずに、大事なものを持ち上げられない、落としてしまうことにもなります。

息を合わせるというのは呼吸の吐くか吸うかのタイミングも合わせることで、最も力が入るのは口を開いて息を吐いているときではなく、口を閉じて息を止めるときです。

「阿吽の呼吸」で表現するなら、力が入るのは口を閉じている吽(うん)です。武道の世界では、相手が息を吐く阿(あ)のタイミングで攻めることが重要とされています。逆にいうと、阿で攻められないように、相手の呼吸を読みながら吽で受けて、また吽で攻めるということです。

これは身体での戦いに限らず、言葉での戦い、心理戦などでも重要となることで、「阿吽の呼吸」は味方が呼吸を合わせると同時に、敵(戦う相手)との駆け引きにおいても重要な言葉、つまり金言に値するキーワードと考えられているのです。
〔小林正人〕

「こんにゃくの日」日本こんにゃく協会と全国こんにゃく協同組合連合会が、こん(5)にゃく(29)の語呂合わせで制定。

「シリアルの日」日本ケロッグが、コーンフレーク(529)と幸福(529)の語呂合わせで制定。

「エスニックの日」日本エスニック協会が、エス(S)を5に見立て、ニック(29)の語呂合わせで制定。

「胡麻祥酎の日」紅乙女酒造(福岡県久留米市)が、胡麻祥酎の普及のために口(5)福(29)の語呂合わせで制定。

毎月29日:「ふくの日」(日本アクセス)、「クレープの日」(モンテール)、「Piknikの日」(森永乳業)、「肉の日」(都道府県食肉消費者対策協議会)

「唯我独尊」(ゆいがどくそん)は、仏教の逸話の中では根幹となる言葉であるのに、間違った使い方がされがちで、中には唯我独尊の4文字を見て、暴走族やヤンキーを思い浮かべる人もいます。

実際に、背中に唯我独尊と書かれた(縫い込んだり、染めたり)ジャンパーを着たり、チーム名にしていたグループも存在していました。

そんな負の印象も抱かれる言葉を“金言”とするのは如何なものかとの声も聞こえてきそうですが、間違った使い方を正して、本来の意味を伝えることも意味があります。

負の印象が抱かれるようになったのは、“尊”を偉いという意味だと受け止めた結果で、本人として「無敵」とか「俺が最高」というイメージで、独りよがりのカッコよさを示したとも(新語・現代用語的に)解釈されています。

しかし、唯我独尊は誰の言葉だったのかを知ったら、考えを改めることでしょう。

唯我独尊は、お釈迦様の生誕逸話として語られ続けてきた言葉です。

お釈迦様は誕生したときに、いきなり立ち上がって歩き、右手を天に、左手を地に指し、「天上天下唯我独尊」と言葉を発したと伝えられています。

天上天下(てんじょうてんげ)は、天の上(宇宙)と天の下(地上)と表しています。天下は地下のことではなくて、天上天下で“この世”という意味合いとなります。

天上天下唯我独尊は、「この世で自分より尊い者はいない」と解釈されることがあって、今も独善的な態度を改めない人に対して揶揄(やゆ)するように使われることもあります。

「ただ一人、誰とも代わることがない尊い存在」と解釈されることもあり、お釈迦様が独善的な考えを示されたとは考えにくいことから、後者の意味であると一般には理解されています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

子どもたちの第三の居場所について討議されることが増えています。

第一の居場所の家庭、第二の居場所の学校や幼稚園・保育園、それ以外の場所として学習塾や放課後児童クラブ、放課後等デイサービスがあり、家庭や学校などとは違った環境に子どもたちが集って学ぶ場が強く求められるようになっています。

そのような場を設けることは、何も今に始まったことではなくて、昔から存在していました。江戸時代の寺子屋や手習所にまで遡ることはなくて、昭和の時代にはお寺が第三の居場所となっているのは当たり前の感覚でした。

私は、小学校に入学する前の2年間は母親の実家のお寺に預けられていました。

生まれたのはお寺ではあったものの、4歳になって戻ってくるまでは父親の仕事の関係で山奥の地域にいたので、余所者(よそもの)ではないとしても新参者ではありました。

しかし、お寺の孫という立場で、お寺は地域のコミュニティの場だったので、疎外感がなかったとは言わないものの、受け入れてもらえないようなことはありませんでした。

別に学習を教える場ではなかったのですが、漁師町で豊かとはいえない地域だったので、子どもたちの甘いものへの欲求を満たす場所としては、お寺は絶好の場でした。

目的は饅頭やお茶菓子であったとしても、私と遊びに来たという体裁ではあっても、遊んだあとのおやつが楽しみでした。

おやつまでの時間つぶしが、本を読むことであったり、体を動かす遊びであったりして、それがお寺をコミュニティの場としていました。

昔の子どもには家でも地域でも仕事がありました。お寺の行事にも門徒や檀家の子どもたちが集まって来て、親の手伝い、お寺の手伝いをしていました。そのこともあって、お寺は敷居が低い存在で、よい遊び場、よい学びの場にもなっていました。

そんな地域コミュニティの場所が、今、発達障害児のためだけでなく、多くの子どもに必要だと認識しています。
〔セカンドステージ連盟 理事長:小林正人〕

リテラシー(literacy)は、文字や文章を読んで、内容を理解して文章を書く能力を指す言葉で、膨大な情報の中から必要な情報を引き出して活用するという意味も含んでいます。

今のように膨大というレベルを通り越して、情報が洪水のように押し寄せる時代には、情報を確認することも難しいような状態であり、押し寄せる情報の中から大切なこと、自分にとって重要なことを選択するのは容易ではありません。

ましてや、その情報が正しいのかを判断するのは、もっと難しいことになります。情報の重要性は、それぞれの人の専門性や思考・志向・嗜好などによって違ってきます。同じように目の前を通過していても、関心がないことは、まるで見なかった(見えなかった)かのように心に残らずに通過していってしまいます。

自分にとって、あまり関係ないことであったら、見えなくても、見えていても理解できなかったとしても、大きな影響はないのかもしれません。しかし、それが自分の健康にとって影響を与えることであったら、簡単に見逃すことはできなくなります。

その健康の分野のリテラシーは「健康リテラシー」と呼ばれます。健康リテラシーは「健康や医療に関する正しい情報を入手して、理解して活用する能力」を指しています。

この能力が重要で、情報を提供してくれるのが対面(目の前にいる人から)であっても、書籍やインターネット検索であっても、目に飛び込んでくる、そして脳に伸び込んでくる情報を選択して取り入れるにも、入手して活用するまでの行動には、それなりの技量が必要になります。

その技量(能力)は「入手」「理解」「評価」「活用」の4つに分けられています。この4つを健康分野で考えると、「情報が得られる機会への接触」「ヘルスケア(病気や症状がありときの医療や療法の利用など)」「疾病予防(受診や疾病予防行動など)」「ヘルスプロモーション(生活環境の評価、健康のための活動など)」となります。

重要な健康に関する情報も、経験なしには自分のもとに飛び込んできても理解も評価もできず、その結果として活用することもできなくなります。

健康リテラシーの第一のポイントは情報をキャッチするための能力の強化です。そして、その能力を高めるための数多くの経験です。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

深呼吸は心身ともに健全であるためには重要なことです。

新鮮な酸素を体内に取り込んで、酸素を全身の細胞に行き届かせ、細胞から排出された二酸化炭素を外に吐き出すということだけに、生きていくための基本中の基本となります。

興奮状態になっているときには、自律神経の交感神経の働きを抑え、副交感神経の働きを高めるために深呼吸がすすめられます。

多くの酸素を取り入れることで、全身の臓器や器官の働きが抑えられている証拠となって、そのために交感神経の働きが自動的に抑えられるようになります。

呼吸をするというと、ラジオ体操では「大きく息を吸って、止めて、吐いて」の繰り返しとなっていますが、ただ息を吸い込もうとしても空気は多くは入ってくれません。

肺は自ら伸び縮みすることはできなくて、肺の周囲にある筋肉が動くことによって肺は膨らみます。

そのことから、深呼吸をするときには上半身の筋肉を動かすことが必要になります。だから、胸を大きく開くように腕を動かすように指導されるのです。

呼吸を繰り返して、副交感神経の働きが盛んになると、呼吸数が減り、血管の収縮がゆるみ、血圧も下がってきます。

全身の細胞はエネルギー源(糖質、脂質、たんぱく質)を材料にして、酸素を使ってミトコンドリアの中でエネルギー代謝を進めています。

酸素は細胞の中でエネルギーを作り出し、そのエネルギーを使って元気になるためにも必要なので、意識して呼吸をする時間を、できるだけ作るようにするべきです。
〔小林正人〕

「骨盤の日」ファクトリージャパングループ(東京都千代田区)が、骨(52)盤(8)の語呂合わせで制定。

「自助の日」日本保険協会が、自助にとって大切な希望、知恵、財産、健康、愛を意味する五(5)つ(2)葉(8)の語呂合わせで制定。

毎月28日:「にわとりの日」(日本養鶏協会)、「ニワトリの日」(都道府県食肉消費者対策協議会)

看脚下は禅宗の重要な教えに使われる言葉であって、決して足元を見て自分の履き物を揃えることを促す言葉ではない、ということを前回書きました。

それに続いて、禅宗で使われるようになった由来について書いていきます。

中国・宋代の禅僧の法演が、三人の弟子を連れて暗い夜道を明かりを灯して寺院に帰る時のこと、風が吹いて火が消えて真っ暗になってしまいました。

立ちすくんだ三人に、師匠の法演は質問を投げかけます。

「暗い夜道を歩く時には明かりが必要だ。その明かりが消えた。この暗闇の中を、どうするか」と。ここでいう暗闇は、自分の行く先が真っ暗になったということで、思いもよらない災難に遭い、前途暗澹たるところを、どのように切り抜けていくかとの問いです。

初めに自分の気持ちを言葉に出した仏鑑は「すべてが黒一色の暗闇は、逆にいえば美しい赤い鳥が夕焼けの真っ赤な大空に舞っているようなものだ」と答えます。これに対して師匠は反応しません。

次に、仏眼が「真っ暗の中で曲がりくねった道は、まるで真っ黒な大蛇が横たわっているようだ」と答えます。これにも師匠は反応しません。

最後に、圜悟克勤が「看脚下」と答えました。「真っ暗で危ないから、つまずかないように足元を見て歩きましょう」と答え、師匠に絶賛されました。

以上は私なりの“超訳”ですが、パニックになるようなことがあったら、余計なことは考えずに、足元に気をつけて進むことが重要であり、足元を見ると同時に我が生き方を見直して、未熟である自分に気づくことに大事な意味があるということが「看脚下」には込められているということです。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕