投稿者「JMDS」のアーカイブ

内閣府は、国のお役所の本省の多くが霞が関に集中している中で、永田町に本府があります。これは国会議事堂と内閣総理大臣公邸が永田町にあって、内閣の支援を担っているからです。

内閣府には厚生労働省からの出向が多く、それは省庁の中では予算規模が最も大きく(国家予算の約30%)、それに合わせるように職員数も非常に多いことが関係しています。

公益活動といえば、阪神・淡路大震災(1995年)をきっかけにして発足したNPO法人(正式には特定非営利活動法人)が主なものでした。NPO法人の活動の背景の特定非営利活動促進法は1998年12月1日から始まりましたが、その本丸は内閣府でした。

当時の内閣府には正面入口から見えるところに「NPO室」があり、内閣府認証のNPO法人は、このNPO室が窓口でした。

これを所管する部署の担当(審議官)が厚生労働省で世話になった方の一人であったことから、NPO法人に関わる仕事もさせてもらいました。また、新たにNPO法人を設立したいという方々の支援もしてきました。

そのために、私が代表を務めるNPO法人の設立は2008年12月になってしまいました。これはNPO法人の認証が内閣府から都道府県に移るタイミングの少し前でした。

これを境に、事務所が県境をまたぐ2か所以上にあるNPO法人は都道府県の認証となり、1か所のNPO法人は市町村という身近な自治体の認証となっています。

NPO法人が内閣府の直接的な所管ではなくなったタイミングで、新たに活動が始まったのが公益認定等委員会で、その事務局は内閣府に設けられました。

その役割は、それ以前の社団法人と財団法人の制度から公益社団法人と公益財団法人を認定して推進していくことであり、公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律が運用されています。

それと同時に、一般社団法人及び一般財団法人に関する法律も始まり、社団法人と財団法人は公益か一般かに分けられることになりました。

この制度変更によって、公益社団法人を目指す社団法人、公益財団法人を目指す財団法人からのサポート依頼が飛び込んできました。そして、サポートした法人からの仕事も急に増えるようになりました。
〔小林正人〕

臨床栄養といえば、傷病者の病態や栄養状態に合わせて、適切な栄養管理(栄養補給や食事療法)を行う実践的なアプローチを指しています。

本来は入院か通院かは関係なくて、疾病などの治療、回復、合併症の予防を目的としているものですが、病院給食と同じと考えられてしまうことも少なくありません。

その主戦場は病院であって、栄養管理の具体的なものが病院給食であることは間違いではないのですが、「臨床栄養=病院給食」と平たく(安易に)捉えられることは関係者にとっては不本意なことです。

病院給食は病院で作って、提供して、患者の栄養管理を行うという原則から、委託事業者(給食委託会社)に一部を委託することが徐々に増えてきました。

すべてを病院のスタッフが実施するのと変わらない状態にするためには、病院側と委託会社側ともに新たな体制(厚生労働省の発足)は大きなチャンスでした。

もう一つは健康食品・サプリメントの業界で、以前は医薬品の成分であったビタミン、ミネラル、アミノ酸、ハーブが食品成分となり、厚生労働省の発足の2001年が医薬品成分のコエンザイムQ10、L–カルニチン、α–リポ酸が食品の成分(つまり健康食品・サプリメントの成分)として許可されるタイミングと合致していたことから、誰が送り込まれるかは業界出向の形で霞が関に送り込まれるかは大きな関心事でした。

その両方の意向があって、私が霞が関に行くことになった本当の背景は書きにくいことではあるのですが、特定の部署ではなくて、事務次官室に出入りしていました。

この期間は長くはなかったものの、「保健機能食品等に係るアドバイザリースタッフの養成に基本的考え方について」の通知(2002年2月21日)を見届けることはできました。

これは健康食品・サプリメントの見方を大きく変えさせる“広報支援”になっていました。

その後は、厚生労働省からの出向が多かった内閣府と関わらせてもらう中で、NPO法人の設立や運営支援などを通じて、さらに広報支援を続けていくこととなりました。
〔小林正人〕

“後方支援”という言葉は、多くの世界に存在していて、メインの(直接的な)活動ではないものの、重要な役割を務めている人や部門などを指して使われることが多くなっています。

後方支援を受けているときには、本体の人たちは気づかないこともあり、後になってから評価されるというのが、後方支援に携わっている立場では当たり前となっています。

気づかれないように活動するのが後方支援の“芸”のようなものと言われることはあるものの、どこかで気づかれるのが通常のことです。

ところが、まったく気づかれない後方支援があって、それは広報による支援(つまり広報支援)です。

私にとっての“広報支援”は、2001年から始まりました。この年は国の行政改革で厚生省と労働省が統合されて厚生労働省が始まった年で、今も続く健康関連の施策が次々に打ち出されていきました。

通常の霞が関のお役所の年度は4月1日からですが、中央省庁再編は年明けの仕事始め(お役所的には“御用始め”)の日(1月6日)からスタートしました。

通常の年度の3月31日までは、新組織になったとはいっても過渡期の扱いのようなもので、不足する人材は本省(霞が関の本丸)以外の出先から集められたり、関係先からの出向の形が取られました。

今では当たり前のようになっている業界出向も、まだ明確にはされていなくて、私は2つの団体(日本メディカル給食協会、日本健康・栄養食品協会)からの出向の形で、霞が関に通うことになりました。

ただ、業界の利益のために送り込まれたというよりも受け入れ側との合意というか、最終的には国民の健康づくりの支援になるとの感覚があってのことでした。
〔小林正人〕

病院給食の委託会社よりも、もっと強く「病院給食の敵」と言われていたのは、健康食品でした。

臨床栄養の世界では、それぞれの人の状態を把握して栄養摂取の指導をしてきました。入院患者なら、病院側のスタッフで健康食品の摂取をチェックすることは可能でも、通院患者となると不可能な状態です。

栄養指導をしても、「このお茶を飲んでいるから」「この健康食品を飲むと食事制限をしなくても血糖値が下がる」といった患者が多いという話は、健康食品を敵とみなしている現場では、よく耳にしていました。

そのようなことを栄養指導のときに栄養士に話す患者は少数派で、ほとんどは隠れて、こっそりと使っている現状がありました。

治療食で好結果が出ても、栄養指導のおかげなのか、他にも使っているものがあるのかわからない状態では、敵を潰そうとする声が出る(声だけでなくて手も出るようなこと)のもわからないではありませんでした。

ところが、国の規制緩和(海外からの外圧)によって、従来は医薬品だったビタミン、ミネラル、アミノ酸、ハーブが食品としても使うことができるようになりました。

さらに、2001年からは医薬品の成分であったコエンザイムQ10が食品でも使えるようになって、これに続いてL–カルニチン、α–リポ酸も転換されることがわかってきてから、もう敵ではなくて、味方に取り込まなければならない時代となりました。

敵として戦うよりも取り込んでしまえばよい、という発想が湧き上がってくるのは当然のことです。

2002年に厚生労働省から保健機能食品等のアドバイザリースタッフの養成の通知が出されたときに、初めに手をあげたのは日本臨床栄養協会(臨床医と病院栄養士で構成される団体)でした。

サプリメントアドバイザーという資格認定名を、どの団体が取得するのかということはアドバイザリースタッフの検討が始まったときからの関心事でした。

日本臨床栄養協会の当時の副会長(栄養士のトップ)は、私が所属していた病院栄養管理の研究所の所長でした。私は、その関係もあってアドバイザリースタッフの通知の委員会に送り込まれていました。

このことが、私が臨床栄養とサプリメントという両方の業界とバランスを取りながら長く付き合ってくることができた理由(秘密)の一つです。
〔小林正人〕

「昨日の敵は今日の友」という言葉がありますが、友と認めたくはなくても成り行きから友のようになっている例は、さまざまな世界で見られることです。

業界団体の仕事をしてきて、本来は敵であるのに友のように振る舞わないといけない場面も、何度も経験してきました。

私にとっては敵でもなく、どちらかといえば味方ばかりの感覚ではあるのですが、それは “大した立場ではない身”であったからです。

言い換えれば、柵(しがらみ)がないということで、敵と思われている人に対して“敵”と感じさせないように出向くことができました。

私が所属していた病院栄養管理の研究所のメンバーは、ほとんどが国立や公立の病院の栄養部門の出身者でした。病院給食は病院のスタッフで作って提供するものという意識が強く、その病院給食を外部に委託することにも強い抵抗感がありました。

しかし、民間の病院では、外部に委託をしないと成り立たないところが多いのも事実です。給食費の一部が患者の自己負担になってからは、“金を払っているのだから質も量も求めるのは当然”と考える患者や家族も増えていました。

自己負担といっても、病院側が受け取る金額は変わりがなくて、国が支払っていた分の一部を患者が負担しているだけです。その事実が伝わっていない(伝えても理解してもらえない)と、病院側の負担は増えるばかりです。

経営が苦しい状態が長く続いている病院が、委託給食に頼ろうとするのは当然の流れで、それに歯止めをかけるのは無理な相談でした。

このような状況の中、それまでは独立して動いてきた病院給食の委託会社が組織化されましたが、その指導を研究所の所長が行うことになりました。私は、実際の組織化や法人化、広報、派遣される栄養士と調理師の教育に関わりました。

当初こそ臨床栄養の世界からは「宗旨替えをしたのか」と所長も私も言われたことがありましたが、病院の栄養士・調理師の手によるものであっても、委託事業者の手によるものであっても、その恩恵を受ける患者に満足をしてもらえる内容であることが重要です。

その重要ポイントを業界内部、派遣されるスタッフ、病院側、患者などに理解してもらうようにするのが広報としての私の役割でもありました。
〔小林正人〕

一般社団法人日本厨房工業会の厨房設備士の資格認定は、専門業界内のことで設立から関わりました。

月刊の機関誌の編集をしていたこともあって仕組みづくりから運営まで、それなりの知識はあったものの、それが他の業界でも役立つということは、あまり意識はしていませんでした。

次々に活動の場を渡っていった場面で、資格認定の制度や講習、試験などの話が出るたびに、過去の経験を話していく中で、その根幹に関わるようにもなっていきました。

業界認定や法人の認定では、資格認定の根本的なところに踏み込むことは難しいところがありますが、厨房と直接的に関わる病院調理師の全国団体で講習を実施したのは、専門調理師制度の一つの給食用特殊料理専門調理師で、調理師免許の上位資格の厚生労働大臣が認定している専門調理師の一つです。

この他の専門調理師は、日本料理、西洋料理、麺料理、すし料理、中国料理で、これらの5つの業種と給食用特殊料理は内容が大きく異なっていました。

味や見た目よりも調理技術がすべてであって、一つでも手順(計量も含めて)が違っても合格できない、給食用ということで時間制限が特に厳しいということもあって、ベテランの病院調理師でもクリアするのが大変という内容でした。

このサポートを経験したことで、この後の資格認定は、まだ余裕がある感じでした。厚生労働省のTHP運動の一つの産業栄養指導者も、アドバイザリースタッフの各団体の資格認定も苦労をしたという感覚ではありませんでした。

アドバイザリースタッフの資格認定関係では、国立健康・栄養研究所のNR(栄養情報担当者)、一般社団法人日本臨床栄養協会のサプリメントアドバイザー(現在は合併して日本臨床栄養協会認定のNR・サプリメントアドバイザー)、公益財団法人日本健康・栄養食品協会の食品保健指導士、一般社団法人日本食品安全協会の健康食品管理士にも関わってきました。

その経験は公益財団法人日本健康スポーツ連盟の健康スポーツサプリメント指導者にも活かされて(理事として講習を担当)、それに続く民間資格のメディカルダイエットアドバイザー、サプリメントスペシャリスト、発達栄養アドバイザー、ツイン・ウォーク指導者でも、講習テキスト作成、講習、認定試験、情報発信と、今に続く財産を蓄積することとなっています。
〔小林正人〕

“門前の小僧習わぬ経を読む”という言葉がありますが、私が手掛けた臨床栄養の機関誌の編集は、それがピッタリと思える状況でした。

日本臨床栄養協会は、臨床医と病院栄養士が学び合う学術団体であって、機関誌の原稿は病院栄養士や医師が書いていました。また、協会の学術集会での講演内容を記事にして、参加できなかった会員に講演で示された画面とともに伝える(学んでもらう)のも大きな目的でした。

初めのうちは講演を聞いても、何を言っているのかわからない状態で、臨床栄養学の教科書を借りて、それでもわからないことは医師や管理栄養士の方々に聞くということで、なんとか季刊誌(年4回発行)の編集をこなしていました。

講演の内容のテープ起こしも専門用語で引っかかって、前に進まないということがあったものの、慣れというのは恐ろしいもので、いつしか専門用語が聞き取れるようになって、内容も理解できるようになりました。

専門家ほど専門用語が早口になるという特徴があって、こればかりは聞き慣れていないと、どうにもならないということでした。

慣れることができたのは、学術集会で話されたことを、すべて聞いて文字にしていたからです。学術集会は、同時に複数の講演が行われるために、1人が参加できる範囲は限られています。

だから、すべての講演が掲載されている機関誌は重要になるということですが、全講演を聞いたのは、文字化を担当していた私だけだったので、短期間で充分過ぎるほど学ばせてもらうことができました。

その経験が、その後に続く、栄養士や医師などの複数の団体の機関誌の編集などに役立つことになりました。

その関わった団体は、公益社団法人日本メディカル給食協会、公益財団法人日本健康スポーツ連盟、一般社団法人日本臨床栄養協会、一般社団法人日本臨床栄養学会、一般社団法人日本未病学会、一般社団法人日本病院調理師協会、一般社団法人日本健康倶楽部などでした。
〔小林正人〕

厨房業界の月刊機関誌の業務委託を大学を卒業したばかりで受けるのは大変なことではあったものの、ひょっとすると人脈が使えるかもしれないという希望の光がありました。

厨房業界に関係する通商産業省、建設省、自治省、厚生省、労働省、文部省、農林水産省、防衛庁のうちの多くは、大学1年生のときのアルバイト先だった国会議員が総理大臣を務めていたこともあって、ほとんどのお役所につながりがありました。

ちょうど業務委託を受けた年は社団法人が設立されて10周年で、記念誌を出すことになり、その取材や関係部署の挨拶文やコメントなどをもらうために、お役所を回ることになって、急にお役所、お役人との距離が縮まりました。

お役所と厨房業界との関わりを簡単に説明すると、厨房機器は通商産業省、建物は建設省、安全(消防関係)は自治省、衛生は厚生省、厨房内で働く人は労働省、資格認定などの教育は文部省、食材は農林水産省となります。

営業先は給食関連が多くて、病院と福祉施設は厚生省、産業給食は労働省、学校給食は文部省、自衛隊の給食は防衛庁と、こちらも同じ食事であるのに多岐にわたっていました。

また、業務委託を受けた年に厨房設備士の資格認定が始まり、これはページを埋めるのに絶好のネタとなりました。この資格認定の仕組みを作るのに加わったことは、のちに健康関連の資格認定を手掛けるときに大いに役立ちました。

広報としての厨房で働く人の団体とのつながりから、調理師団体とは深く付き合っていました。調理師の中でも病院の調理師団体とつながり、その先の病院栄養士団体ともつながり、その団体のトップとも言える国立病院の栄養士組織の会長ともつながりました。

厨房業界から離れて、次に進んだのが臨床栄養の世界で、会長が退官して設立した病院栄養管理の研究所で主任研究員となりました。

といっても、臨床栄養は素人同然でしたが、逆に病院の調理師・栄養士は厨房や食器などの安全・衛生には弱いところがあり、補い合うことができる世界でした。

病院栄養管理の研究所では、安全と衛生だけでなく、病院調理の専門誌を編集することになり、さらに日本臨床栄養協会の機関誌の編集も行うことになりました。
〔小林正人〕

社会人として初めに手掛けた仕事から、現在までの道のりを説明すると、多くの人は「いろいろと経験してきたのですね」と言ってくれるものの、その必然性まで考えを及ばせる人は極めて少ないと感じています。

大学を卒業してから50年近くも経っていますが、わざわざ“初めに手掛けた仕事”と書いたのかというと、ただ就職をしたということではなくて、一般の新入社員のような経験はしたことがないからです。

そもそも今に至るまで会社員などとして給料を得たことがなくて、初めから業務委託を受けて専門の仕事をしていたか、私が加わって設立した団体で自ら仕事を作ってきたので、普通の会社員、公務員、団体職員の感覚で働いた経験はありません。

それも親が裕福だとか、嫌な仕事をしなくても生きてこられたということではなくて、新潟県の片田舎(柏崎市)から上京して、東京の大学で親の仕送りで学ぶことができただけです。仕送りだけで生活することはできなかったので、当たり前のようにアルバイトをしました。

そのアルバイト先が、郷土選出の衆議院議員の東京の私邸の錦鯉の世話、クラシック音楽専門誌の編集補助、料亭と割烹の調理補助と続き、大学4年生のときには厨房専門誌の編集を手がけていました。

専門誌といっても、いわゆる業界誌ではなくて、厨房機器の工業会(社団法人)の機関誌で、読者は全国の厨房機器会社の社員と関係先という普通なら“狭い世界”の月刊誌でした。

それも発行日には会員の各社と関係する役所に自らが封入して発送するという、極めて手作り感が満載の仕事でした。

狭い世界に見えながらも、取材先でもある国のお役所は、当時の名称で書くと、通商産業省、建設省、自治省、厚生省、労働省、文部省、農林水産省、防衛庁と、思った以上に広範囲でした。

社団法人日本厨房機器工業会(現在は一般社団法人日本厨房工業会)の「月刊厨房」の編集アルバイトは、卒業後にも継続することになりました。

工業会に卒業の挨拶に行ったときに、驚きの話をされました。それは、機関誌の編集を業務委託していた編集者が会社に黙って副業をしていたことが知られて、手を引いてしまったということでした。

そのために、私が業務委託を受けることとなったのですが、たった1年間のアルバイト経験で月刊機関誌を作成するのは大変なことでした。
〔小林正人〕

「プチクマの日」ブルボンが、プチシリーズのキャラクターのプチクマが登場した2011年6月24日にちなんで制定。

毎月24日:「ブルボン・プチの日」(ブルボン)、「削り節の日」(東京削節類卸協同組合)