「昭和100年」11 区切りの年で振り返る

昭和30年(1955年)の平均寿命は男性が63.60歳、女性が67.75歳でした。その時代に生まれた人にとっては、60歳、65歳までを想定して人生設計をするというのが普通の感覚でした。

平均寿命は、その年に誕生した人が、現状の社会システム、経済状況などが継続したと想定して何年まで生きることができるのかという推定値です。最新の平均寿命(2024年)は男性が81.09歳、女性が87.14歳となっていますが、今現在60歳の男性が、あと20年生きられるという数字ではないのです。

昭和30年に生まれた私は、昭和93年までの平均寿命ということになり、とても昭和100年の自分を考えることはできなかったわけです。しかし、この文を書いているということは、まだ生き残っているということで、大災害でもなければ昭和100年(2025年)を迎えられそうな状態となっています。

昭和100年を考えるときに、それぞれの区切りの年が、どんな状況であったのかを振り返ってみることをすすめています。そこで自分を例にしてみると、昭和30年(1955年)は終戦から10年が経過して高度経済成長が始まった年でした。「もはや戦後ではない」と経済白書に書かれたのは、翌年の昭和31年のことでした。

昭和40年(1965年)は、私が10歳になった年で、第2期高度経済成長が始まり、昭和45年までの「いざなぎ景気」の始まりの年でもありました。

昭和30年からの日本始まって以来(神武天皇以来)の好景気の「神武景気」、昭和33年からの神武天皇よりも以前の天の岩戸神話にちなんだ「岩戸景気」を超えるということから、国造り神話にちなんで「いざなぎ景気」と呼ばれました。

昭和30年代は三種の神器(冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビ)が家庭に入り、昭和40年代は3C(新・3種の神器)呼ばれるカラーテレビ、クーラー、自動車が急速に普及しました。

昭和50年(1975年)には私は20歳で、「サザエさん」の放送が始まりました。新幹線が岡山駅から博多駅まで延長されて、東海道新幹線・山陽新幹線の東京−博多間が直通となった年です。それが話題となっていたときに、大学の同期が沖縄国際海洋博覧会に行って、「EXPO75」の土産をもらったことを覚えています。

昭和60年(1985年)には私は30歳で、8月12日に日本航空機の墜落事故(群馬県上野村)が起こった年です。この日を迎えるたびに、「あの日から◯年」と報道されます。

1986年から始まる“バブル景気の前夜”とも呼ばれ、1991年2月までは不動産や株式などの資産価格が実体経済からかけ離れて高騰、まるで泡が消えるように一気に萎んでしまった不幸な時期に盛んに仕事をすることになりました。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕