“おしゃか”にならないために

「おしゃかになる」というのは、使い物にならなくなる、出来損ないになる、駄目になるという意味があって、漢字では「お釈迦になる」と書かれます。この“お釈迦”は、お釈迦様、つまりブッダを指していて、仏教を広めた偉大な存在が使い物にならないというのは、なんとも奇妙な感じがして、由来を探ってきました。

幼いころは、母の実家の寺(新潟県出雲崎町)に親元を離れて暮らしていたのですが、私の誕生日(4月8日)には檀家の方々が集まって、お祭りごとをしていました。私の誕生祝いをしてくれていたわけではなくて、お釈迦様の生誕日を祝う花祭り(灌仏会)でしたが、持ち寄ってくれたお菓子が食べ放題の日だったこと、それを目当てに近所の子ども達が挙(こぞ)って遊びに来て、遊び放題だったことを今でも覚えています。

出雲崎町は良寛和尚(江戸時代後期の僧侶)の生まれ在所で、良寛堂と良寛記念館は遊び場の一つでした。良寛和尚は備中玉島(岡山県倉敷市)の円通寺で、12年にわたって修行をしています。私も晩年になって岡山県に移住してみて、良寛和尚が歩いてきた距離に感慨を抱いているところです。

おしゃかになるという言葉を初めて聞いたのは、幼いころの住職の祖父からで、そのときには鋳物職人が阿弥陀像を作るつもりだったのに、間違って釈迦像を作ってしまったので、注文と違うものになった、ということでした。幼いときの記憶なので、曖昧なところもあるのですが。

江戸時代の鼈甲(べっこう)細工の職人が、鼈甲を柔らかくするために火をあてていて、火が強すぎると鼈甲が変形して使い物にならなくなるということから、“火が強かった”が「しがつようか」にかけて、お釈迦になると言うようになった、ということを中学生なってから知りました。駄目になることを“お陀仏”と表現することにも関係しているようです。

次の説を知ったのは大学生のときで、江戸時代の博打打ちが勝負に負けて、身ぐるみを剥がされたときにも“お釈迦になる”と書かれている書籍に巡り会いました。花祭りでは誕生仏(幼少時代の釈迦像)に甘茶をかけて供養をしますが、その像は裸であったことから使われるようになったということでした。

どれが正解かというよりも、庶民の言い伝えは諸説があるのが常です。期待と違うことになるということでは共通しているわけで、ちょっとした過ち、判断ミスで取り返しがつかないことがないように、慎重に進めていくべきだということは、4月8日を迎えるたびに自分に言い聞かせるようにしています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕