「出すぎた杭は打たれない」というのは、以前からよく使われている言葉で、もちろん「出る杭は打たれる」という諺(ことわざ)をもじったものです。これまでオリジナリティーを発揮して諺をもじってきたのに、もはや使い古されたと言われてもしかたがない言葉を出してきたということは、とうとうネタ切れかとも言われかねないのを承知して、わざわざ使ったのは、新型コロナウイルス感染症の拡大から、出すぎた杭(くい)は打たれないという常識が、通用しにくくなり、出すぎた杭であっても打たれるようになってきたと感じているからです。
「出る杭は打たれる」というのは、才能をあらわす者は周囲から疎まれるということを指していて、本人は出過ぎたふるまいをしているつもりはなくても、勝手に出過ぎたと思われてしまって、邪魔をされることがあります。この諺の“出る杭”というのは地面に一列に並んだ杭のことで、高さを一定にするために標準よりも出ている杭は叩いて他と合わせるようにします。日本人に限らないのかもしれませんが、周囲と合わせて、競争をして突出することがないのが平穏無事に過ごす秘訣とされてきました。
これは平和な時代、必死になって競争しなくても生き延びることができた時代に、平均的な活動をしていればよいというときのことであって、新型コロナウイルス感染症の拡大によって、客は来ない、物は売れない、感染が収束してきたので客足が戻ってくるものと思って準備をしていたのに、まったく期待はずれだったという状況では、平等を求めていたら、みんなで頭を揃えるどころか、自分だけが地面に沈み込んでいって、周囲から置いていかれることにもなりかねません。
平等というのは、同じ条件で戦っていけば、同じような結果が出るということを指しています。同じように並んだ杭も、実は微妙に長さや太さが異なり、同じ力加減で打っているのに地面への沈み方が違ってきます。それでも平穏無事な時代では、少しくらいの差は問題なく、あとで回復することもできました。ところが、禍(わざわい)という文字が使われるほど、厳しい状況になっていると平等に並んだつもりでいても、いつのまにか自分だけが沈んでいたということにもなります。
だからこそ、出すぎた杭になって周囲の注目を集め、どうせ買うなら、どうせ食べるなら、どうせサービスを受けるなら、ここに限ると言われるくらいに存在感を示すしかないと意識が大きく変わるようなことになったのが、コロナ禍での生き残りをかけた戦いの姿です。