新型コロナウイルス感染が、ここまで長く続き、人流抑制とワクチン接種のほかの決定的な対策が見えてこないという状況では、前と同じ状態に戻ることは期待しにくく、まったく意識が変わるほどの変化があってもおかしくないと感じることも多くなっています。大きな変化といっても、社会システムが変わるようなことがなければ、徐々にでも戻していくことは可能でしょうが、もしもシステムが根底から変わってしまうようなことがあったら、どんな対応を今からすればよいのかもわからなくなってきます。
コロナ禍の時代は、自分を見つめ直して、新たなことに対応できるように準備をしていく時期だということが言われています。しかし、どんな変化があって、どんな影響が自分たちにあるのかが見通せない状況だと、無理に動いて無駄なことにもならないように“家宝は寝て待て”ではないですが、何が起こっても動じないように心身ともに健康でいることが大事ではないかと考えています。
新型コロナウイルス感染拡大を“戦争状態”にたとえる声があります。このことを世界に向けて発言したのは国連事務総長でしたが、死者が相次ぎ、雇用が失われ、弱い立場にいる人が苦しみ続けるとの発言をしました。戦争は終了しても社会の混乱と貧困、社会システムの崩壊や変更などによって、前と同じ生活をすることは不可能となります。戦争がプラスに働くことがあったとしても、それは戦勝国の理論です。コロナ感染に戦勝国はありません。ワクチン開発で大きな利益を得た会社を多く抱える国であっても、それを遥かに超える損失が発生しています。
これまで「これに頼ればよい」と思い込まれていたことが、まったく頼りにならなくなっている大変化も想定して次の時代の準備を進めていくことが必要です。それを念頭においての言葉が「頼みの綱渡り」です。もちろん、頼みの綱という諺(ことわざ)のもじりですが、頼りにして縋って(すがって)いた人や物が役立たずになり、それ以外に縋るものがないというもの、例えば人流抑制とワクチンにだけ縋っていたことが、振り返ってみたら役立たずであったということに後になって気づいたのでは遅すぎます。
頼みの綱だと信用しきってしまうのではなくて、これは“綱渡り”であるという意識で、先へ先へと対策を進めるために頭を使い尽くすくらい考えるべきだということを言いたいがための言葉です。